第11SS装甲偵察大隊 1944年1月 レニングラード戦線

第11SS装甲偵察大隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/05 04:09 UTC 版)

1944年1月 レニングラード戦線

オラニエンバウム撤退戦

1944年1月14日、レニングラード近郊のオラニエンバウムにおいてソビエト赤軍がドイツ北方軍集団の包囲網を破ると、「第11SS義勇装甲擲弾兵師団「ノルトラント」が所属する第ⅢSS装甲軍団は西進するソビエト赤軍と交戦した。

1944年1月22日、第11SS装甲偵察大隊はソビエト赤軍の猛攻の矢面に立たされているマクシミリアン・ヴェングラー大佐(Oberst Maximilian Wengler)(ドイツ第18軍の兵器学校の責任者)の戦闘団に編入された。ヴェングラー大佐は第11SS装甲偵察大隊に対し、ペコロヴォ(Pekkolovo/Пекколово)近郊に集結中のソビエト赤軍部隊を攻撃するよう命じた。そこで大隊長ルドルフ・ザールバッハSS大尉は大隊を以下の二つの戦闘団に分けた[4]

  • 「北」戦闘団:大隊指揮官ザールバッハSS大尉もしくは第5中隊長シュミットSS中尉
    • 第1、第4、第5中隊
  • 「南」戦闘団:第2中隊長ヘックミュラーSS中尉

この2個戦闘団はペコロヴォ近郊に進出し、ドイツ軍の反撃を予想していなかったソビエト赤軍部隊を駆逐した。当時の隊員は次のように述懐している[5]

・・・我々はロシア軍の歩兵と馬車から成る車列を2、3確認した。我々の火砲、対戦車砲、そして機関銃はただちに発砲を開始した。

今や村から敵の脅威は取り除かれ、我々はさらに奥地を偵察せんとした。(すると)突然ドイツ軍の重砲が周囲に降り注ぎ、大隊の何名か、とりわけ第4中隊の者が負傷した。戦闘団の一つは目的を果たしたため、損傷した3両の装甲兵員輸送車を牽引して帰還した。フィーマン(Heinz Viehmann)SS中尉が第4中隊の指揮を引き継ぎ、ランゲンドルフSS少尉が第5小隊の指揮を引き継いだ。

その後、さらに奥地に進んだ偵察隊がグバニツィ(Gubanizy/Губаницы)南部において大規模なソビエト赤軍戦車部隊が集結していることを明らかにしたため、第11SS装甲偵察大隊はグバニツィに布陣した。

1944年1月25日、警報を受けた第11SS装甲偵察大隊は同日の午後にグバニツィ東部の半円陣地を確保したが、同日の夜に東から戦車の接近音を耳にした。明らかにソビエト赤軍の大規模攻勢が行われる予兆であった。このため、大隊は約束されていた「ノルトラント」師団の突撃砲の増援を待った。

1944年1月26日 第5中隊の奮戦

しかし翌26日早朝、朝もやの中から現れたのはドイツ軍の装甲車両ではなく、歩兵を満載して猛スピードで進軍するソビエト赤軍戦車部隊であった。ザールバッハSS大尉の第11SS装甲偵察大隊は、グバニツィ郊外で明らかに迫り来る敵装甲部隊の攻撃を待ち構えた。約束の増援部隊は到着していない。そして、この日の戦闘の目撃者は次のように述懐している[6]

朝の青白い光の中、ロシア軍の装甲部隊が朝もやを破って前線に現れた。轟音を響かせて雪原を席巻する敵の目標はグバニツィだった。最初、敵戦車は7両だったが、続いてその後ろに戦車の大群が現れた。そこにはT-34に加え、旧式戦車も含むあらゆる種類の装甲車両がいた。第11SS装甲偵察大隊第5中隊の砲手たちは敵戦車を照準器の視界に捕捉した。第一波の7両中6両が撃破された。今度は第二波の番だった。かつて見たことがない程の戦車戦が繰り広げられ、硝煙が空を覆った。重対戦車砲の砲身から次々に砲弾が撃ち出された。砲手は防盾の後ろで矢継ぎ早に仕事をこなした。私は61両の敵車両を数えたが、それらの大部分が我々の目前にまで迫っていた。戦闘はますます熾烈を極めた。スポルクSS伍長は彼の砲車をソビエト赤軍の方へ全速力で突っ込ませ、短砲身の直接照準で片っ端から敵戦車を討ち取っていった。私は戦闘がかくも長く続いたということに気づかないほど、時間の感覚を失っていた。生き残ったロシア軍部隊は退却した。敵の突破は失敗に終わったのだった。

かくして1944年1月26日朝、第11SS装甲偵察大隊はグバニツィ郊外で61両[7](資料によっては56両[8]、54両[9])のソビエト赤軍戦車と交戦し、そのうち48両(資料によっては31、34両)を撃破した。そのうち11両は負傷したシュミットSS中尉に代わって中隊を指揮したゲオルク・ランゲンドルフSS少尉SS-Ustuf. Georg Langendorf)の第11SS装甲偵察大隊第5中隊のオランダ人SS兵長カスペル・スポルクが指揮するSd Kfz 251/9が討ち取ったものであった。この戦闘における功績により、後にカスペル・スポルクSS兵長には1944年1月30日付で二級鉄十字章一級鉄十字章が授与され、第5中隊長ランゲンドルフSS少尉には1944年3月12日付で騎士鉄十字章が授与された(なお、大隊長ザールバッハSS大尉も1944年3月12日に騎士鉄十字章を授与されるが、それは3月12日から19日にかけてエストニアのHungerburgでの戦闘の功績によるものとされている[10])。

この時、第5中隊以外の中隊は随伴歩兵大隊を相手にしていたが、その戦闘における功績により、第1中隊長ジークフリート・ローレンツSS中尉にはドイツ十字章金章の受章が約束された。

ナルヴァへの後退

1944年1月27日、シュタイナーSS大将の第ⅢSS装甲軍団は後退を開始し、第11SS装甲偵察大隊の戦闘車両は「ヴェングラー」戦闘団および第502重戦車大隊の後退活動を援護した。第502重戦車大隊のティーガーIが列車でナルヴァへ輸送された後、後衛を務めていた第11SS装甲偵察大隊もエストニア国境へたどり着いたが、そこで「ヴェングラー」戦闘団における任務は終了し、第11SS装甲偵察大隊は本隊である「ノルトラント」師団の指揮下に戻った。


  1. ^ MarK C. Yerger German Cross In Gold Holders of the SS and Police volume 3: Regiment and Division "Nordland"p22
  2. ^ 同上。
  3. ^ Wilhelm Tieke "Tragedy of the Faithful: A History of the lll.(germanisches)SS-Panzer-Korps" p11
  4. ^ Wilhelm Tieke 前掲書 p38の記述では「北」戦闘団の指揮官は大隊長ザールバッハSS大尉であるが、Rolf Michaelis The 11th SS-Panzer-Grenadier-Division "Nordland" p51の記述では「北」戦闘団の指揮官は第5中隊長シュミットSS中尉である。
  5. ^ Rolf Michaelis 前掲書 p51
  6. ^ Wilhelm Tieke 前掲書 p41。この箇所の出典はおそらくHerbert Pollerおよび第11SS偵察大隊戦友会(Kameradschaft AA 11)が編集した書籍(非公式出版物)と思われる。
  7. ^ Wilhelm Tieke 前掲書 p41における数字。
  8. ^ MarK C. Yerger 前掲書 p95における数字。
  9. ^ Rolf Michaelis 前掲書 p51における数字。
  10. ^ Die Ritterkreuzträger der Deutschen Wehrmacht und Waffen-SS / WAFFEN-SS / Saalbach, Rudolf - SS-Sturmbannführer・ http://www.ritterkreuztraeger-1939-45.de/Waffen-SS/S/Saalbach-Rudolf.htm
  11. ^ ヴィルヘルム・ベルリン砲兵大将(General der Artillerie Wilhelm Otto Julius Berlin)のドイツ第227歩兵師団の残余。
  12. ^ Rolf Michaelis The 11th SS-Panzer-Grenadier-Division "Nordland" p76
  13. ^ 同上 p78による。ただし、Wilhelm Tieke 前掲書pp.150-151.によれば、第11SS装甲偵察大隊が「ヴァーグナー」戦闘団に配属されたのは8月24日である。
  14. ^ 同上 p80





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