石橋山の戦い 石橋山の戦い

石橋山の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/10 07:32 UTC 版)

石橋山の戦い

古戦場碑から相模湾を望む
歌川国芳作、石橋山の戦いで組み合う佐奈田与一義忠俣野五郎景久
土肥の椙山のしとどの窟
歌川国芳『源頼朝石橋山旗上合戦』。梶原景時(画面中央)が身を隠す源頼朝主従(画面右)を、大庭景親ら(画面左)の追跡からかくまう場面を描く[7]

目代である山木兼隆を倒しても頼朝の兵力のみで伊豆1国を掌握するにはほど遠く、平家方の攻撃は時間の問題であった。頼朝は相模国三浦半島に本拠を置き大きな勢力を有する三浦一族を頼みとしていたが、遠路のためになかなか参着してこなかった。8月20日、頼朝はわずかな兵で伊豆を出て、土肥実平の所領の相模国土肥郷(神奈川県湯河原町)まで進出。これに対して、平家方の大庭景親俣野景久渋谷重国海老名季貞熊谷直実ら3000余騎を率いて迎撃に向かった。

23日、頼朝は300騎をもって石橋山に陣を構え、以仁王の令旨を御旗に高く掲げさせた。谷ひとつ隔てて景親の軍も布陣。さらに伊豆国の豪族伊東祐親も300騎を率いて石橋山の後山まで進出して頼朝の背後を塞いだ。この日は大雨となった。そのため、増援の三浦軍は酒匂川の増水によって足止めされ、頼朝軍への合流ができなかった。

前日に三浦一族は頼朝と合流すべく進発しており、途中の景親の党類の館に火を放った。これを遠望した景親は三浦勢が到着する前に雌雄を決すべしとし、夜戦を仕掛けることにした。闇夜の暴風雨の中を大庭軍は頼朝の陣に襲いかかる。

『平家物語』によると合戦に先立って、北条時政と大庭景親が名乗りあい「言葉戦い」をした。景親は自らが後三年の役で奮戦した鎌倉景正の子孫であると名乗り、これに時政がかつて源義家に従った景正の子孫ならば、なぜ頼朝公に弓を引くと言い返し、これに対して景親は「昔の主でも今は敵である。平家の御恩は山よりも高く、海よりも深い」と応じた。

頼朝軍は力戦するが多勢に無勢で敵わず、工藤茂光、岡崎義実の子の佐奈田与一義忠らが討ち死にして大敗した。『平家物語』『源平盛衰記』などには佐奈田与一(真田余一)の奮戦が伝えられ、この地には与一を祀る佐奈田霊社が創建されている。

大庭軍は勢いに乗って追撃し、頼朝に心を寄せる大庭軍の飯田家義の手引きによって頼朝らは辛くも土肥の椙山に逃げ込んだ。

翌24日、大庭軍は追撃の手を緩めず、逃げ回る頼朝軍の残党は山中で激しく抵抗した。頼朝も弓矢をもって自ら戦い百発百中の武芸を見せた。ちりぢりになった頼朝軍の武士たちはおいおい頼朝の元に集まり、頼朝は臥木の上に立ってこれを悦んだ。土肥実平は、人数が多くてはとても逃れられない、ここは自分の領地であり、頼朝一人ならば命をかけて隠し通すので、皆はここで別れて雪辱の機会を期すよう進言し、皆これに従って涙を流して別れた。北条時政と二男の義時は甲斐国へ向かい、嫡男の宗時は別路を向かったが、宗時は途中で伊東祐親の軍勢に囲まれて討ち死にしている。

大庭軍は山中をくまなく捜索した。大庭軍に梶原景時という武士がいて、頼朝の居場所を知るが情をもってこれを隠し、この山に人跡なく、向こうの山が怪しいと景親らを導き、頼朝の命を救った。このことが縁で後に景時は頼朝から重用されることになる。土肥(現在の湯河原町)の椙山のしとどの窟がこのエピソードにまつわる伝説の地として伝わっている。

また、隣町である神奈川県の真鶴町真鶴漁港にもしとどの窟が存在し、2か所あることから、頼朝は房総半島へ渡るまでに、いくつかの場所に身を隠したのではないかと言われている。「しとどの窟」の由来は、追手が「シトト」と言われる鳥が急に飛び出してきたので、人影がないものとして立ち去ったと言われている。

房総半島の現在のいすみ市江場土地区に立ち寄った際、小高い丘に腰を下ろして休もうとしたところ、地元の農夫から座布団代わりにと一束の藁を差し出された事にいたく感激し、「一藁」の姓を授けている。 [8]


注釈

  1. ^ 頼朝は水干に着替え、男山八幡に遥拝した後に謹んで令旨を拝読したという
  2. ^ 実は命を狙われていたのは源頼政の孫の源有綱であって頼朝が狙われていたのは誤報だったという説がある[4]
  3. ^ (任命者である)平時忠が伊豆国の知行国主が任命されたのはこの年の6月29日で、兼隆は目代と言ってもその在任は1か月余りに過ぎないことから、頼朝と兼隆の戦いを同じ京から下った「流人」同志、あるいは「流人」を中心とした中央・地方の人的ネットワーク同士の衝突と解する見解もある[6]
  4. ^ さらに『吾妻鏡』によると兼隆は頼朝と「私の意趣」があったという。『曽我物語』などに頼朝と恋仲だった政子が兼隆に嫁がされそうになり、勝気な政子は頼朝のもとへ逃げ出して、以来、頼朝と兼隆は敵同士になったという話がある。ただし、この話は虚構の可能性も高い。詳細は山木兼隆を参照。
  5. ^ なお、この頼朝の挙兵は本来は自らに近い頼政系の源氏が伊豆からいなくなってしまったため工藤茂光が急遽頼朝を代理の旗頭に仕立て上げたとの説もある[4]
  6. ^ 『吾妻鏡』によると安房国に落ち延び『延慶本平家物語』によると直接甲斐国に落ち延びた。

出典

  1. ^  義経記#頼朝謀反の事』。ウィキソースより閲覧。 
  2. ^ 『吾妻鏡』
  3. ^ a b 川合康『源平の内乱と公武政権』吉川弘文館〈日本の中世3〉、2009年。
  4. ^ a b 永井晋『鎌倉源氏三代記 一門重臣と源家将軍』吉川弘文館、2010年。
  5. ^ a b 元木泰雄『河内源氏』〈中公新書〉、2011年。
  6. ^ 川合康 著「中世武士の移動の諸相」、メトロポリタン史学会 編『歴史のなかの移動とネットワーク』桜井書店、2007年。 /所収:川合康『院政期武士社会と鎌倉幕府』吉川弘文館、2019年、42-44頁。 
  7. ^ 石橋山合戦 - 小田原市、2022年4月2日閲覧。
  8. ^ http://www.hakone-geopark.jp/area-guide/manazuru/033shitodonoiwayamanazuru.html 箱根ジオパークしとどの窟
  9. ^ http://www.kikuchi2.com/seisui/gs21.html 国民文庫『源平盛衰記』明治43年2月13日発行、「巻第二十一」
  10. ^ https://www.tv-tokyo.co.jp/adomachi/backnumber/20030809/28831.html 出没!アド街ック天国 青木さん






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