真昼の暗黒 (映画)
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公開後の反響とその後
1956年4月10日、第24回国会参議院法務委員会で、日本社会党の亀田得治が1955年4月10日に京都市上京区で起きた傷害致死事件「京都五番町事件」(当時、「京都事件」または単に「五番町事件」ともいわれる、無実の4人の少年が誤認逮捕された事件[7])について、真犯人と見なされる男が、同年3月[8]にたまたま本作を鑑賞して自責の念にかられ、4月3日になって京都地方検察庁に弁護士に付き添われて凶器持参で自首してきたことに触れて、映画に対する見解を松原一彦法務政務次官に質したが、松原は「その裁判が決定しない前に予断を与えるようなことは、私はよろしくないと思う」と応じた[9]。
同年4月16日の参議院本会議で亀田は、真犯人の自首のきっかけをつくり、「四人の少年の人権を守った」この映画について、首相の鳩山一郎に「どうお考えになるか」と訊ねたが、鳩山は答弁を避けた[10]。
1957年4月9日、第26回国会衆議院法務委員会での「裁判所法等の一部を改正する法律案」に関する公聴会で、日本民主党の高橋禎一(広島3区)が「真昼の暗黒」のラストシーンのセリフを引用して「とにかく、有罪の裁判は受けたけれども、最後は最高裁判所があるんだから決して悲観するなという、非常に激励鞭撻しているような面が出てきますが、あれはやはり今の日本の国民の裁判制度に対する一つの常識だと思うのです」[11]と最高裁の位置づけの議論の材料として示した。
八海事件については映画公開後の1957年10月に最高裁は事実誤認として広島高等裁判所に差し戻し、広島高裁は1959年9月に弁護側の主張を認め、阿藤ら4人を無罪とした。しかし検察側が上告、最高裁は原審を破棄差し戻して1965年の広島高裁は再び阿藤に死刑判決を下し、最終的に真犯人(すでに無期懲役が確定)の出した上申書が決め手となって1968年10月に最高裁が阿藤ら4人を無罪としてようやく確定した。日本国憲法下の刑事裁判において、二審で死刑判決を受けて最高裁に上告された数は多いが、最高裁が二審の死刑判決を破棄・差し戻した例は12例(11件・16人)と少ない。
この最後の判決を山田は傍聴し、その模様を『キネマ旬報』に寄稿している[12]。釈放された阿藤たちを山田は箱根の温泉に招待し、その際の特別上映で初めて本作を鑑賞した阿藤は「感激した」と後年述べている[13]。
ラストシーンでの主人公の「まだ最高裁がある!」の叫びは、三審制と刑事裁判の逆転無罪判決[14]を象徴する言葉として21世紀の現在でも弁護士達によって語り継がれている。
- ^ 発電、送電、配電関係労組で作る産別労組の一つで、日本電気(NEC)は無関係
- ^ a b c d e f 村井、2005年、pp.73 - 75
- ^ 村井、2005年、p.72
- ^ 橋本は正木の著書については「あれ自体は映画にならないね」と述べている。
- ^ a b c d 村井、2005年、pp.79 - 81
- ^ a b 第24回国会参議院法務委員会 第10号会議録
- ^ 前坂俊之『冤罪と誤判』 田畑書店、1982年 [要ページ番号]
- ^ 出頭した日付は、前坂(1982年)では「3月25日」、1956年の参議院法務委員会における政府委員等の説明(4月10日および4月24日)では「3月20日」とある。
- ^ 第24回国会参議院法務委員会 第13号会議録
- ^ 第24回国会参議院本会議 第36号会議録
- ^ 第26回国会衆議院法務委員会公聴会 第1号会議録
- ^ 村井、2005年、p.66
- ^ 村井、2005年、p.82
- ^ 民事裁判は上告してもほとんどが三行決定で棄却され、控訴審判決が事実上の終審となっている
- 1 真昼の暗黒 (映画)とは
- 2 真昼の暗黒 (映画)の概要
- 3 製作
- 4 公開後の反響とその後
- 5 評価
- 6 外部リンク
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