益田就祥 益田就祥の概要

益田就祥

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/03 17:12 UTC 版)

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益田 就祥
時代 江戸時代中期
生誕 寛保3年(1743年
死没 文化元年(1804年
別名 通称:喜三郎、越中、又兵衛
幕府 江戸幕府
長州藩
父母 父:益田広尭
正室:毛利広定の養女(実松波信濃守光資の娘)
就恭、佐世親長
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生涯

寛保3年(1743年)、毛利家家老益田広尭の子として生まれる。明和2年(1765年)、広尭の死去により家督を相続する。加判役(家老)、留守居役となる。安永7年(1776年)、当職(国家老・執政)となり、幕府の課役などへの出費で逼迫した藩財政の改革に当たった。

天明3年(1783年)、財政建て直しのために、撫育方収入(検地などによる増収入を、藩の財政に繰り入れず、開作(干拓)や殖産興業の資金としたもの)を数年間所帯方(藩の財政)に繰り入れることを藩主毛利治親に進言して、治親と先代藩主重就の不興を買い、罷免の上で逼塞を命じられる。翌天明4年(1784年)処分を解かれるが、重就の意向で隠居を命じられ、家督を嫡男の就恭に譲る。文化元年(1804年)卒。享年62。

参考文献




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