清露国境紛争 1665-1689年:1665年から六年戦争までのアルバジンの状況

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清露国境紛争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/17 04:06 UTC 版)

1665-1689年:1665年から六年戦争までのアルバジンの状況

1665年、リムスクのヴォイヴォダ(軍司令官)が、ポーランド人ニキフォール・チェルノゴフスキー英語版により殺害された[58]。 チェルノゴフスキーはアムール川流域へと逃亡し、アルバジン要塞を再占領した。そしてアルバジンを中心としてヤクサ王国英語版を建国した。 チェルノゴフスキー(チェルニゴフスキー)らは再び先住民からヤサクを徴収しはじめた。

ヤクサ王国は1670年の清による攻撃を耐え、1672年にはツァーリ・アレクセイの恩赦と公的な承認を受けた。 1673年から1683年にかけて、清は、南方での三藩の乱の鎮圧にかかりきりになった。 1682年もしくは1684年にチェルノゴフスキーはヴォイヴォダに任命された[33][34][35]

アルバジン戦争(六年戦争):1683年から1689年

1683年

1683年、清はゼーヤ川流域のロシア要塞を奪回して食糧補給路を断った[5]

1685年5月-7月:アルバジン包囲 

紛争から一世紀後に英国で描かれた地図。主戦場となり紛争後に清領となったチチハル(Tcitcisar)と吉林省(Kirin)を描いている。寧安(Nimguta)は紛争初期において清の水軍の基地となったが、後に吉林(Kiring Ula)に移された。地図上のSaghalien R.、Tchikiri Rはそれぞれアムール川とゼヤ川である。アイグン(SaghalienまたはUla Hotum)は清軍のアルバジン攻略での前線基地であった(アルバシン自体は地図上に描かれていない)。またAihom ruin(e)dはアムール川左岸の元々のアイグンの場所である。ネンジャン(Mergenkhotun) とチチハル(Tcitcisar) は北満州の主要都市であった。 'Houmar Riverはロシア側の記録でのコマール川中国語版であり、ネルチンスク(Nerczinsk)で終戦条約が結ばれた。

1684年には、清軍がアルバジンを襲撃し、司教を含む、相当数のロシア人が北京に連行された[59]。 1685年6月10日、康熙帝の命により、清軍は、アルバジンへの攻撃を開始した[60]

翌日1685年6月11日には、ハルハ・モンゴル部隊がセレンギンスク、ついでウジンスクを包囲した[60]

ロシア側の記録『シベリア年代記』によると、トルブジン指揮下のコサック736名(または単に守備兵826名という)が善戦した。アルバジンは数日で陥落したが、トルブジンは、プロイセン人将校ベイトンら外人部隊の援軍を得て、アルバジンを奪い返した。また、この際、ロシア人住民の一部が北京に拉致された[59]

ロシア兵のほとんどはネルチンスクへ敗走したものの、少数は清に寝返り、北京駐屯の八旗鑲黄旗に編入されてオロス・ニルやアルバジン人中国語版(阿爾巴津人)と呼ばれる部隊が発足した。その後、清の撤退後に、アレクセイ・トルブジン指揮下のロシア軍800人が再び訪れ、砦を占領した。ただ彼らの当初の目的は、この地域での稀少品である穀物を栽培することであった。

1686年7月-11月:第二次アルバジン包囲 

1686年、清による二度目のアルバジン包囲戦が行われた。清軍は8000人の兵がいたともいう。また清の史料では兵力2100名、増援200名ともいう[59]。 ロシア側は736名のコサックが戦った。別の説では守備兵826名である。軍司令官トルブジン戦死後、ベイトンが指揮した。 彼らは壊血病に苦しんだが、1687年5月に清が包囲を解いたので陥落することはなかった[59]

同年12月に和平条約の知らせが届き包囲が解かれたとも[35]、18か月後に砦は破られトルブジンは殺害されたとも[61]されているが、包囲が終わった時、砦には兵士は100人も残っていなかった。

1685年-1686年 休戦交渉とハルハ・モンゴルの動き

1685年、アルバジン攻撃に苦戦し、清はロシアに国書を送った。 ロシア政府はアムール河での休戦交渉のために、12月には全権大使フョードル・ゴローヴィンを派遣した。 ゴローヴィンはザバイカリエを訪れ、ハルハ・モンゴル人を中立化させようとしたが、当時のハルハ部は清と密接に連携していた。 1688年1月、ハルハ・モンゴル軍は清の軍事援助の元、セレンギンスクとウディンスクを挟撃した。ロシア軍が勝利し、ゴローヴィンは無傷であった[59]

講和条約

1860年代のアムール川流域
17-19世紀での清露国境の変化

1689年にネルチンスク条約が結ばれた。ロシアはアルバジン要塞を放棄すること、清露の境界はアルグン・ゴルビツァ川に決まった。ほかには、互いに越境した逃亡者は引き渡さないことなどが決定された。また、清は、ロシア側に貿易を許可した。イエズス会士が通訳を果たしたため、条約には、ロシア語、ラテン語、満州語の3種類の言語版が存在する[62]

アルバジン陥落からほぼ2世紀後の1858年に、アイグン条約によりスタノヴォイ山脈からアムール川まで(プリアムール)がロシア領となった。また、1860年、北京条約によりロシアは17世紀には争われていなかった沿海地方までを得た。


  1. ^ 章京(ジャンギン)は、清の官名。清初には武官に用いられた。雪, 王 (2017). 中国語辞典『四声標註支那官話字典』の考察. p. 87. http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~shkky/wakumon/no-32/08wangxue.pdf  2021年10月14日閲覧)
  2. ^ 清と朝鮮の争いである丙子の乱(1636年-1637年)で、李氏朝鮮は清に敗れる。『清太宗実録』によれば、清の皇帝、太宗(ホンタイジ)は朝鮮国王にさまざまな義務を課した。内容は明との往来を断つことや国王や大臣の息子を人質にすることなどとともに軍事力の提供も含まれていた。清は、他国を攻撃する際には(みことのり)を下して朝鮮に使節を派遣し、兵や軍事的な援助を出すよう厳命している。太宗の文書にはこうある。「朕が軍団を戻して皮島を攻撃すれば、50隻を送るべきであり、爾(なんじ)は水兵、鳥銃・大砲や弓手を準備するべきである。大軍が帰還すれば、軍を慰労する儀礼を行うべきである。」[44]
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