涿州市 歴史

涿州市

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 18:53 UTC 版)

歴史

秦代に設置された涿県を前身とする。漢代には涿郡三国時代にはにより范陽郡の郡治とされた。624年武徳7年)に唐朝范陽県と改称、769年大暦4年)には新設された涿州の管轄とされた。明朝が成立すると涿県は廃止となり、管轄区域は涿州の直轄とされた。1913年民国2年)、州制廃止に伴い涿州は涿県に改編、1986年には県級市に昇格し涿州市が成立し現在に至る。

涿州市は中原から北に離れた辺地であったが、後漢末期には劉備関羽張飛の三人が涿県で旗揚げしたのを始め、涿州は後漢末の盧植北魏代に地理書『水経注』を著した地理学者酈道元、禅宗六祖の慧能初代皇帝の趙匡胤北宋の儒学者邵雍などの人材を次々と輩出している。

清代、涿州は北京から南へ出発して最初に着く州だったことから、乾隆帝は全国巡幸の際に涿州を「天下第一州」と命名している。

交通

北京・天津・保定の三都市が形成する三角形の中でも北京寄りに位置する。京広線が駅を涿州市内に置き、北京と河北省都石家荘市を結ぶ高速鉄道・京石高速鉄道も駅を置く予定になっている。

道路網は、京石高速道路が市内を縦断する。また一般国道・G107国道が市内を南北に縦貫し、廊涿高速道路と接続している。南の石家荘からは210km、保定からは89km、北の北京・広安門からは62km。

行政区画

3街道、10鎮、1郷と省級経済技術開発区1つを管轄する。

  • 街道弁事所:双塔街道、桃園街道、清涼寺街道
  • :松林店鎮、碼頭鎮、東城坊鎮、東仙坡鎮、高官荘鎮、百尺竿鎮、義和荘鎮、刁窩鎮、林家屯鎮、豆荘鎮
  • :孫荘郷

古跡・観光地

涿州双塔、永済橋、金門閘など。また劉備関羽張飛の三人を記念する三義宮や張飛廟などもある。

関連項目




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