法科学
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用語
由来
法科学 (Forensic sciences) の諸分野において頭につけられる「フォレンジック (Forensic)」(形容詞)は、ラテン語の “forēnsis” 、つまり「フォーラム(広場)の」に由来している[1]。ローマ帝国時代、「起訴」とは、ローマ市街の中心にあるフォロ・ロマーノで聴衆を前に訴状を公開することであった。被告と原告はともに自らの主張を行い、よりよい主張をしてより広く受け入れられたものが裁判において判決を下すことができた。この起源は、現代における “forensic” という語の2つの用法のもとになっている。1つ目は「法的に有効な」という意味、そして2つ目が「公開発表の」という意味である。これが現代の裁判において陪審員(日本では裁判員)の前に証拠を詳らかにして判断を下してもらうということにつながっている。
一方、“Science” はラテン語の「知識」という単語から由来し、今日では科学的手法でシステマティックに知識を得る手法、つまり学問を指す。両単語を合わせて、法科学は科学的手法やプロセスを利用して事件を法廷で解決していくことを意味するようになった。
現状、フォレンジック・サイエンス (forensic science) の代わりに単にフォレンジクス (forensics) と表現しても同様の意味を持つ。今や "forensics" は科学と密接に関連するものととらえられているため、多くの辞書が "forensics" に "forensic science" すなわち法科学の意味を同時に載せている。
コンピュータ関連のデジタル分野においては、もともと計算機科学はコンピューター・サイエンスであることもあり、上記の省略形を用いて後ろにフォレンジクス (forensics) とつけている。
- ポストモーテム(英語:Post-mortem )
- Post-mortem という語は、死後を意味する語であるが、検死・司法解剖を意味する。この語は、プログラミング分野などにも持ち込まれ、様々な分野での反省会を意味する語となった[2]。
日本における用語の変遷
日本におけるフォレンジック・サイエンス (forensic science) の訳語については、1974年当時の論文などから「総称としての犯罪科学 (criminalistics) の結果は、裁判上の証拠として法廷に提出され、判決に重要な影響を及ぼす使命を持つため、『法科学(または裁判科学)(forensic science)』とも呼ばれる」[3] という表記が見受けられ、1986年の出版物でも「裁判科学」[4] との表記が見受けられる。そのほかには個別に著者が「法廷科学」[5] や「司法科学」[6] といった訳語をあてる場合もあった。
2005年(平成17年)には、「日本鑑識科学技術学会」の「鑑識」の語句から「学会の活動が、警察の行っている鑑識活動の範囲に限定された印象を与えかねない」とし、「学会の学術分野・活動を適切に表現して、世界的にも一般に用いられている語句としては、『法科学』が最適」と「日本法科学技術学会」への名称変更が行われた[7]。
現在では、警察庁の科学警察研究所においても「法科学」の各部にそれぞれ各分野の研究室が整備され、「法科学研修所」[8] も設置されている。
なお、日本の「法医***」などの医学系については、「法科学」という用語が日本で定着する前から存在していたため、法医系と司法精神医学は(それぞれ学会名としても以前より存在しており)、そのままとなっている。その関係で、今でも古い翻訳ソフトでは「フォレンジック・***」をすべて「法医***」と誤訳するものも残っている。中には「フォレンジック・ケミストリー(法化学)」を「法医学」としてしまう翻訳サービスまであるため注意が必要である。
概要
理化学研究所では、「法科学は証拠に基づき犯罪事実を立証するための科学技術を体系化したもの」[9] としている。また、複数の学問が関係するため、法科学は「学際的科学」と言われる[10] こともあり、その中心的意義は「証拠物件科学である(こと)」[11]、つまり、法廷における立証に用いることができる「(訴訟法上の)証拠能力」がある科学ということになる。犯罪の捜査においては「近年は(従来の自白や供述に基づく捜査より)物的証拠が重視されるようになって」(2019)[12] おり、その学問的背景となるのが法科学である。
今日、犯罪現場の証拠のみならず、環境・公害問題・医療過誤・コンピューター犯罪など、多くの裁判で科学的根拠に基づく証拠が判決を左右するものとなっている。しかしながら、科学的証拠を扱う裁判官や弁護士、検事は一般的にそれらについての専門知識を有さない。科学技術上の法則を利用して得られた証拠は、その高度な専門性のために、法廷がその内容について実質的に理解することが困難であり、単に科学的であることをもって客観的にも正しいものとして法的判断の根拠として判決を下すことはできないのである。そこで、何をもって証拠能力がある科学とするのかという判断を迫られることになる[13]。
そこで、法廷においては、科学技術として確立している分野の専門家によって鑑定された科学的証拠として認めるかどうか、また、その分野の専門家証人の証言を証拠能力のあるものとして採用するか否かの基準が必要となってくる。アメリカにおいては、従来よりいくつか基準が存在し、1993年の合衆国最高裁判所における「ドーバート対メレル・ダウ製薬」の最高裁判決により、ドーバート基準が連邦法に追加され、カナダやイギリスでもそれをもとにした基準を作っている[13]。つまり、「法科学 (forensic science)」と呼ばれるにはこれらの基準を満たしている必要がある。
日本では、鑑識官や訴訟法上の裁判所の指定した学識経験者が行うことなどとされており、鑑定の信頼性を判断する一般の基準は特になく、どの証拠を採用するかは裁判官の一般的な法的判断のひとつ(自由な心証)としてなされてきた。しかしながら、日本においても陪審制と似た裁判員制度の2009年の開始に伴い、法的判断を職業としていない一般の裁判員が限られた時間の中で判断しなければならないことがあり、裁判における証拠認定基準の確立(いわゆる「証拠法」)の必要性が指摘されている[13]。
実際に専門家証人として裁判に参加した東北大学大学院の本堂准教授は、その経験をもとに、2010年2月に「日本では、科学の非専門家である法律家が科学を適切に用いるためのルール(「証拠法」)が存在せず、科学界と司法界の協働のネットワークも存在しない。この結果必然的に、法廷で不毛な科学的議論が繰り返されている」とし、「教育を含めた科学界の問題」とともに、「『不健全な』証拠や証人ばかりを重用させ、適用限界を超えた証拠判断をくだすことで、法的判断の科学的合理性を法廷自らが毀損する結果を招いている」と司法界の問題も指摘、科学界と司法界の協働の必要性を訴えた[14]。
日本では「歴史の古い個別分野もあるものの法科学自体は歴史が浅く、いまだ法科学という言葉自体なじみが薄い」[10] とされていたのは、元々陪審員に納得してもらうことを主目的とする陪審制の国々とは異なり、日本においては一般に警察や裁判所が行うもの[15] という認識と、2009年に至るまで陪審制に相当する裁判員制度が存在していなかったためとも言える。
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