桓公の後継者争い 後継者争い

桓公の後継者争い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/21 09:17 UTC 版)

後継者争い

姜無詭の優勢と混乱

桓公は、紀元前643年に亡くなった。『管子』や戦国時代のいくつかの史書によれば、共謀する4人の役人によって餓死したと記載されている[10][11]。しかし、これらの事件に関するその他の有力な情報源、たとえば『春秋左氏伝[6]や『史記』の記録などは、これについて言及していない[8]。桓公が死んだため、宮廷での後継争いはエスカレートした。後継者である姜昭と、公位継承権の主張者の姜無詭・姜潘・姜商人・姜元・姜雍の派閥は、互いに武装し、首都臨淄中国語版英語版は武力的な混乱に陥いった。しかし、姜無詭は宮廷に置いて、易牙豎刁という2人の強力な支持者を有していた[6]。『管子』は、この2人が桓公を殺害した共謀者の一人であると主張している[12]。易牙と豎刁が率いる姜無詭の派閥がなんとか宮殿を支配し、捕らえることができるすべての公位継承者を殺害した。他の公位継承者たちは自らの命のために逃亡した[6][12]紀元前643年11月11日、姜無詭は斉の新しい公爵として即位した(斉侯無詭)。その後、ついに桓公の墓葬が行われた。さまざまな説明によると、桓公の死体は、後継者争いのために7日から3カ月の間、寝室に無人で安置されていて、すでに腐敗し始めていた[注 1]

しかし、姜無詭の即位にもかかわらず、統治は盤石と言うにはほど遠いことが証明された。姜潘・姜商人・姜元・姜雍の支持者の勢力も大規模なままであったが、最大の脅威を与えたのは宋の襄公の元に亡命して援助を求めた姜昭であった。宋の襄公は宋を中心として、と同盟を組んだ。襄公と姜昭が率いるこれらの諸侯の同盟軍は、紀元前642年3月に斉を侵攻し始めた。防衛側の斉侯無詭は、侵略者から斉侯無詭を助けるために遠征軍を派遣したの支持を得た。しかし結局、戦場での勝敗が決定される前に、斉侯無詭は殺害された。宋を中心とする侵略を斉の人々は恐れ、斉侯無詭に対して反乱を起こし殺害させ、姜昭を新しい公爵として迎え入れた[6][14]

甗(げん)の戦い

斉の首都臨淄中国語版英語版と戦場となったの位置を示す山東省の地図

斉侯無詭の死の情報が広まるにつれて、姜昭の公位継承が避けられなくなったと思われたため、曹・衛・邾は斉から軍を撤退させた。しかし実際には、姜昭の確実な公位継承者としての地位はまだ確保されていなかった。姜昭が即位しようとしたとき、姜潘・姜商人・姜元・姜雍は支持者とともに臨淄に戻り、姜昭の派閥を攻撃した。したがって、姜昭の兄弟が宮廷を支配し、姜昭に対して同盟を結んだ。姜昭は再び臨淄から逃げることを余儀なくされた。姜昭はまだ宋軍と共に斉に残っていた宋の襄公の元に亡命し、援助を求めた。一方、姜潘・姜商人・姜元・姜雍の連合軍は、斉から宋の軍隊を追い払うために臨淄から打って出た。甗(げん、現在の山東省済南市歴城区)で2軍は相対し、宋軍が決定的な勝利を収めた。姜潘・姜商人・姜元・姜雍は斉から逃亡し、宋の襄公は臨淄で姜昭を即位させた。それ以降、姜昭は斉の孝公と呼ばれるようになった。後継者争いは一旦の収束を迎えたため、宋の軍隊は帰国した[6][14]

しかしながらも、姜潘・姜商人・姜元・姜雍らの支持者は依然として活動的であり、新たに即位した孝公に対して陰謀を企て続けた。甗での敗戦後まもなく、姜潘・姜商人・姜元・姜雍を援助するために北狄は斉を侵略し、荒廃させた。しかしこれは孝公の勢力を弱めるには不十分であり[6]、斉は再び安定した。北狄の攻撃の後には、斉の国内は落ち着いた状態になり、故桓公は死後数か月で適切な儀式を行われ、最終的に埋葬された[6][14]


注釈

  1. ^ 管子』は、桓公の死体は7日[12] または11日間腐敗したままだったと記載されている[13]。『春秋左氏伝』と『史記』の記載では67日となっているが[14][6]、『韓非子』では3か月と記載している。どちらの日数が正しかったとしても、歴史家たちは、日中に埋葬するために、死体を準備することが慣習であると指摘している。しかし、桓公の場合は儀式が夜に行われ、「状況が異常であることを明確に示している」[14]

出典

  1. ^ Hsu (1999), p. 553.
  2. ^ Hsu (1999), pp. 553–4.
  3. ^ Hsu (1999), pp. 554–6.
  4. ^ Zuo Qiuming (2015), p. 98.
  5. ^ Cook; Major (1999), pp. 15, 16.
  6. ^ a b c d e f g h i j k l Zuo Qiuming. “Book 5. Duke Xi” (Chinese, English). Zuo Zhuan. 2017年8月27日閲覧。
  7. ^ a b c Hsu (1999), p. 557.
  8. ^ a b c Sima Qian (2006), pp. 80, 81.
  9. ^ Sima Qian (2006), p. 79.
  10. ^ Rickett (2001), pp. 387, 388, 431, 432.
  11. ^ Sima Qian (2006), p. 80.
  12. ^ a b c Rickett (2001), p. 388.
  13. ^ Rickett (2001), p. 432.
  14. ^ a b c d e Sima Qian (2006), p. 81.
  15. ^ Hsu (1999), p. 558.
  16. ^ Ulrich Theobald. “The feudal state of Qi 斉”. ChinaKnowledge. オリジナルの2017年2月2日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20170202215841/http://www.chinaknowledge.de/History/Zhou/rulers-qi.html 2017年9月19日閲覧。 


「桓公の後継者争い」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  桓公の後継者争いのページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「桓公の後継者争い」の関連用語

桓公の後継者争いのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



桓公の後継者争いのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの桓公の後継者争い (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS