東都大学野球連盟
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一般財団法人東都大学野球連盟(とうとだいがくやきゅうれんめい、英語表記はTOHTO UNIVERSITY BASE BALL LEAGUE)とは、東京を所在地とした22校の大学の硬式野球部で構成された4部制の大学野球リーグである。
- ^ a b プロで活躍したいなら東都!? Numberweb 2011年9月5日
- ^ 『一橋大学硬式野球部七十五年史』 118-119頁より
- ^ a b c d e 赤尾好夫 『野球大観』 旺文社、1949年、61頁
- ^ 『東京朝日新聞』 1929年2月19日
- ^ 『東京朝日新聞』 1930年2月25日
- ^ 『東京朝日新聞』 1931年4月3日
- ^ 連盟事務所は専修大学に置かれた(横井春野 『日本野球戦史』 日東書院、1932年、235-236頁)。
- ^ 『東京朝日新聞』 1931年4月30日
- ^ 実力の東都が名門の六大学を駆逐!? Numberweb 2013年6月26日
- ^ 戦時学徒体育訓練実施要項を制定(昭和18年3月30日 毎日新聞(東京))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p45 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ 『週刊ベースボール増刊 大学野球』秋季号でも創立70周年を記念して誌上初めて、2008年現状まででも唯一となる東都の特別企画を実施。
- ^ “来春1部リーグは7校 東都大学野球”. 時事通信社 (2020年12月22日). 2021年1月9日閲覧。
- ^ 球場の優先使用に関しては明治神宮野球場にも詳細を記述。
- ^ 矢崎健一 (2022年10月1日). “ドラフト候補を次々に送り出す東都大学リーグが進める大改革、いったいなぜ?”. JBpress 2023年3月30日閲覧。
- ^ 球場狭い…東都2部リーグ、神宮第2を来春から使用せず(サンケイスポーツ2013年11月16日 2014年4月10日閲覧)
- ^ 神宮第二で開催せず、来春は当該校で土日開催 東都2部(産経新聞2013年12月19日 2014年4月10日閲覧)
- ^ 東都大学野球連盟・2部リーグ日程表
- ^ 開会式や閉会式の入場行進曲の演奏は、かつては所属校の吹奏楽部やブラスバンドに依頼していた時期もあったが近年は場内放送になっている。
- ^ 過去はかなりの部分を外部招聘の審判員に依存していたが、年々OBの採用度合いが高まっている。
- ^ 1部リーグの新人戦は、交流戦が始まった当初は、交流戦のある年度は新人戦が開催されなかったが、1部リーグ所属校からは、交流戦よりも1部リーグ新人戦の重要性を求める意見が多く、交流戦のある年度も実施することが復活した。
- ^ a b c d それ以前のリーグ創設時から昭和までの優勝チーム・順位・入れ替え戦の結果は下記を参照。
東都大学野球連盟 一部リーグ歴代優勝校(全国大学野球総合情報サイト大学野球~神宮への道~)
東都大学野球連盟 二部リーグ歴代優勝校(全国大学野球総合情報サイト大学野球~神宮への道~)
東都大学野球連盟 三部リーグ歴代優勝校(全国大学野球総合情報サイト大学野球~神宮への道~)
東都大学野球連盟 四部リーグ歴代優勝校(全国大学野球総合情報サイト大学野球~神宮への道~) - ^ 亜大応援団なぐり込み 球場で木刀かざし 芝工大生10人けが『朝日新聞』昭和45年(1970年)5月23日朝刊 12版 22面
- ^ 東都大学野球連盟 21校応援団に処分『朝日新聞』1970年(昭和45年)9月26日朝刊 12版 22面
- ^ asahi.com:「東都の御三家」すべてが姿消す 大学野球 - スポーツ(ウェブ魚拓保存版)
- ^ かつて両校が常磐松御料地跡地に存在し、両校が隣接していた
- ^ 皇典講究所の後身である國學院大學と皇典講究所の附属機関が発祥の日本大学
- ^ 『神宮の奇跡』門田隆将著 講談社文庫
- ^ 東都大学野球リーグ、1部と2部の統合検討(朝日新聞2015年9月3日 9月23日閲覧)、東都大学野球 来春1、2部統合も 背景に2部の球場問題(スポーツニッポン2015年9月3日 9月23日閲覧)
- ^ あの感動をもう一度・・・硬式野球部 硬式野球部 栄光の11・24(学習院桜友会インフォメーション)
- ^ http://emoyan-yan.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_d0cb.html 江本孟紀 エモやんの“いごっそう”日記 2007年5月29日 (火) タイのエース
- ^ 衆議院会議録情報 第048回国会 体育振興に関する特別委員会 第4号
- ^ 遠征中に滞在先の旅館で丹前を盗んだことが発覚。
- ^ 事件を受けた最初の連盟会議の席上、遺憾に感じた両校野球部からの当該シーズンのリーグ戦辞退の意を受ける形でいったん了承し、次季は両校が2部に落ちることも決定した。その後、報告を受けた全日本大学野球連盟の判断(あくまで応援団同士の乱闘であり、学生野球憲章違反には抵触しない)による差し戻し審議の結果、一転して両校のリーグ復帰(リーグ戦の継続)が決まった。なおその結果、このシーズンは日大が優勝を収めた。
- ^ 連盟では禁止されていた短期大学部の学生を登録していた。
- ^ 当初は、当時の野球部監督の大学当局側による解雇に端を発した、大学当局側とそれに反対する野球部員との騒動報道に始まったことであったが、それが学内の派閥争いに絡む問題であったことから、野球部員の学内における待遇が学生野球違反ではないかとのリークによるマスコミ報道で事が大きくなり学生野球協会や連盟を巻き込んだ騒動に発展した。(当時の各報道各誌記事による。)
- ^ ある部員が通学途中の電車内で痴漢行為の疑いで逮捕。同時に乗り合わせていた他数名の部員も一時逮捕勾留されたが、主犯格の一人のみが起訴、他は不起訴となった。起訴された部員は後に執行猶予付きの有罪で結審したが、前代未聞の事件として、連盟側は1年以上の出場停止を含むさらなる厳しい処分を課そうとしたが、学生野球協会審査室からの差し戻しにより、一季間(半年)の出場停止で決着した。
- ^ 明治大学百年史編纂委員会 『明治大学百年史』 第三巻 通史編Ⅰ、学校法人明治大学、1992年、565頁
- ^ 『中央大学誌』(中央大学、1935年)には1930年以前から野球部はあったが、大学から公認されていなかったとの記述がある(同書、17-18頁)。
- ^ 大和球士 『真説 日本野球史 《昭和篇 その1》』 ベースボール・マガジン社、1977年、297頁
- ^ 朝日新聞社 『運動年鑑』 昭和5年度、38頁
- ^ 申酉事件を参照のこと
- ^ 東京帝国大学が学問としての農学を重視したのに対し、東京農業大学は「農学栄えて農業滅びる」と唱えていた。
- ^ 大学組織として中央大学野球部が公認されたのは東都の前身である新五大学野球連盟結成の前年(1930年)4月である(『中央大学百年史』 年表・索引編、2004年、166頁)。ちなみに農大は1910年、國學院大は1920年、日大は1923年、専修大が1925年となっている(いずれも学校公認組織としての記録をもって創部年としている)。今に伝わる伝承の中にあるような中央大学が東大と共に当時の東京五大学野球連盟(現六大学野球連盟)からの加盟打診を受けたと思われる1921年〜1925年の間、正式な野球部が存在しなかった当時の中央大学に、果たして野球を愛好する学生集団が存在していたのか否か、あったとしてそれが果たしていかほどの技量であったかは今や知る術がない。創部年が古いチームの技量が必ず高いわけではない(一般的な傾向としてはあるが、衆目一致の事実としてはそのような理論も法則も存在していない)が、一般論として、既に学校公認の野球部となった学校公認チームと経験者の指導者もいない愛好者集団がそれらのチームと同等、あるいはそれらに並ぶような技量を有していた可能性は高くないと考えられる。ただし、広い意味での大学野球黎明期に当たるこの時期、1925年以前とそれ以降の東都の前身である新五大学野球連盟が結成される1931年に至る6年の間の各校の状況は大きく変わっている可能性があり、東京六大学の結成に刺激を受けた各校が、その後の技量向上・整備をみるに至って新リーグ(五大学野球連盟)結成の機運が高まったと考えられる。
- ^ 飛田は立教大学のリーグ参加を後押ししたのは自分だと述べている(『熱球三十年』 中央公論社、1934年、376頁)。
- ^ 『東京朝日新聞』 1936年3月6日
- ^ 『東京朝日新聞』 1936年4月26日
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