本田親商 本田親商の概要

本田親商

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/31 04:35 UTC 版)

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生涯

祖父は薩摩国本田氏12代兼親の三男である親賢で、その次男である本田蔵人親尚(本田下野守親貞の親である本田下野守親尚とは別人)の子として誕生。宗家の本田薫親が島津氏に叛く一方、親商は島津義弘に従い、その家老および蒲生(現・鹿児島県姶良市蒲生町)の地頭を務めた。

天正14年(1586年岩屋城攻めの際、義弘に従い肥後国八代に在陣、その後の文禄の役にも参加する。朝鮮から一時帰国した際の慶長元年(1596年)、薩摩国へ配流となっていた近衛信尹が許されて上洛する際は、鹿島右衛門尉と共にその供をした。その後は再び朝鮮へ渡海、泗川の戦いにも参戦した。

帰国すると、義弘に従いそのまま伏見へ在勤し、関ヶ原の戦いにも従軍した。その戦いの後に薩摩へ逃亡する際には、自らが義弘の身代わりとなるべく剃髪している(義弘はこの前年に剃髪している)。この褒美として100石を付与するとの感状を賜った。

慶長10年(1605年)に、加治木(現・姶良市加治木町)にて死去した。法名は「良山道久居士」。加治木の大株寺に葬られ、後に本誓寺(南さつま市)へ墓所は移された。神田藤兵衛という者が殉死している。

参考文献

  • 本藩人物誌』 鹿児島県史料集(13)(鹿児島県史料刊行委員会)



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