斎村政広
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関連作品
- 小説
- 水嶋元、『残月―竹田城最後の城主、赤松広英』(東洋出版)
- 火坂雅志、『壮心の夢 』(文春文庫)
- 映像
- 論文
- 渡邊大門「赤松広英に関する一考察」(『太子町歴史資料館館報』14号、2012)
脚注
参考文献
- 高柳光寿; 松平年一 『戦国人名辞典』吉川弘文館、1981年、113頁。
- 阿部猛 著、西村圭子 編 『戦国人名事典』新人物往来社、2001年。ISBN 4404017529。
- 谷口克広; 高木昭作(監修) 『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、1995年、6頁。ISBN 4642027432。
- 西村鉄治 『赤松廣通(広秀・広英)』駟路の会、1979年。
- ^ a b c 西村 1979, p. 354.
- ^ a b c d e f g h 阿部 2001, p. 356
- ^ a b 田畑基 (2015年11月24日). “竹田城の履歴書(50)広秀への思い 今も昔も”. 朝日新聞デジタル 2018年9月11日閲覧。
- ^ 『赤松廣秀公由緒記』によると没後150年忌に竹田城下で始まった祭礼に由来する。殿町城坂(表米神社境内の南側から竹田城跡南千畳に至る道)の登り口に新たに鳥居が建てられ「虎臥大明神」の額が掲げられていたと伝える[3]。
- ^ 岡田正人 『織田信長総合事典』雄山閣出版、1999年、182頁。ISBN 4639016328。
- ^ 足利義昭の上臈(高級侍女)であったが、天正3年に政広が織田信長に拝謁した頃に、信長の養女となって二条昭実に輿入れした。中御門宣教の日記『宣教卿記』によれば、当時、昭実にはすでに正室(若政所)がおり、少なくとも嫁いだ時には側室であった[5]。
- ^ 赤松政則の婿養子となった義村の孫で、政広のおじにあたる。
- ^ a b c d e f g h i 谷口 1995, p. 6.
- ^ 史料綜覧10編911冊129頁.
- ^ 名字「斎村」はこの一時避難していた佐江村(または才村)に由来するという。
- ^ a b 西村 1979, pp. 17–18.
- ^ 西村 1979, p. 58.
- ^ 西村 1979, p. 63.
- ^ 西村 1979, p. 98.
- ^ a b c d e f 高柳 & 松平 1981, p. 113.
- ^ 西村 1979, p. 108.
- ^ この焼き討ち(焦土戦術)は、政広に寝返りを促して鳥取城攻めの指揮を執っていた亀井茲矩の策であり、実行者の政広一人に罪をなすり付けたとする説が強いと言われている。また、行方知れずだった義兄弟の宇喜多秀家を匿ったという疑惑が囁かれていたのも理由とされる。
- ^ “「獅子王」の写し刀作成へ 28日から資金募集(リンク切れ)”. 神戸新聞NEXT. (2016年10月25日) 2017年2月5日閲覧。また“名刀「獅子王」418年ぶり竹田城へ 「刀剣女子」が一役”. 神戸新聞NEXT. (2018年4月20日) 2018年4月21日閲覧。
- ^ 姜沆(朴鐘鳴校注)『看羊録』平凡社東洋文庫,1984年、p.184
- ^ 福永酔剣 『日本刀大百科事典』 3巻、雄山閣出版、1993年、12-13頁。
[前の解説]
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