山内豊雍 生涯

山内豊雍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/26 15:20 UTC 版)

生涯

寛延3年(1750年)1月6日、第8代藩主・山内豊敷の四男として生まれる。宝暦6年(1756年)11月11日、豊敷の嫡子となる。宝暦13年(1763年)2月15日、将軍徳川家治御目見する。明和元年(1764年)11月13日、従四位下筑後守に叙任する。明和5年(1768年)1月2日、父豊敷の死去により、家督を継いで藩主となる。同年12月28日、侍従に任官した。

藩政においては文武を奨励するなどした。また、天明の大飢饉による被害で藩財政が困窮したため、藩士の知行借上などを行なっているが、効果はなかった。このため、天明7年(1787年)に吾川郡池川・名野川の百姓が伊予に逃散する。豊雍は谷真潮、尾池春水、久徳直利などの人材を用いて藩政改革に乗り出す。まず、土佐藩20万石の格式を10万石に切り下げて節約を行ない、問屋制を廃止して五人組の強化などを行なった。これら一連の改革を天明の改革といい、藩財政はいくらか再建されたという。

安永9年12月21日(西暦では1781年1月)、一族の旗本・山内豊産に蔵米1万俵に支給し、大名(土佐新田藩主)にする。なお、豊産への蔵米支給は、弟豊泰を養子に入れる約束で行われた。寛政元年(1789年)8月24日に死去した。享年40。跡を長男の豊策が継いだ。

藩政改革を成功させたことから名君と呼ばれている。また、温厚賢明な性格だったといわれている。

系譜

  • 父:山内豊敷(1712-1768)
  • 母:加恵 - 貞光院、伊笹氏
    • 本人:山内豊雍
    • 正室:友(とも)子(1749-1780) - 観月院殿翠顔妙黛大姉、毛利重就の三女
      • 長男:山内豊策(1773-1825)
      • (以下生母不明の子女)
      • 男子:景之助
      • 三男:山内豊敬
      • 女子:采子 - 慈明院、上杉顕孝婚約者、のち黒田長舒継室
      • 女子

参考文献





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