尖閣諸島戦時遭難事件 戦後の慰霊と補償

尖閣諸島戦時遭難事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/14 15:14 UTC 版)

戦後の慰霊と補償

尖閣諸島戦時遭難事件については生存者の多くが口を閉ざしており、まとまった形で資料となったのは1974年(昭和49年)発行の『沖縄県史』第10巻が初めてであった[1]。その後、回想をまとめた記録集などが発行されている。アメリカ側の戦闘記録も発見された[8]

遺骨の残された尖閣諸島は無人状態が続き、沖縄県がアメリカ軍の占領統治下におかれた関係もあって現地での慰霊活動は困難であった。1969年(昭和44年)に石垣市長一行が島に上陸して、「台湾疎開石垣町民遭難慰霊之碑」を建立した。遭難者遺族代表らも同行し、再び不幸な漂着者があった時には食糧となるよう、長命草とパパイアの種子を島に植えている[22]1978年(昭和54年)には遺族会が結成され、2002年(平成14年)に石垣市新川にも慰霊碑を建立した。石垣市新川の慰霊碑において毎年7月3日に遺族会による慰霊祭が行われている[25]

2011年に石垣市が尖閣地域での慰霊祭実施の要望を政府に行った[26]。一方、遺族会は「ナショナリズムの思想を持つ活動家が過激な行動で挑発し合っている不穏なこの時期の慰霊祭は、紛争の火種になりかねない」「『武力』に守られながら慰霊祭を行うことは考えていない」として現地尖閣での慰霊に執着しないと表明している[27]2012年(平成24年)には魚釣島にて慰霊祭を行うべく、超党派議員連盟日本の領土を守るため行動する議員連盟の所属議員が政府に上陸許可申請を行ったが認められず、付近の洋上で慰霊祭を行った[28]。その際、参加者のうち東京都や兵庫県の地方議員5名を含む約10人は、政府の許可なく島に上陸している(日本人活動家尖閣諸島上陸事件[29]。地方議員らが上陸する約10日前に日本の領土を守るため行動する議員連盟会長の山谷えり子参議院議員は、政府に出す上陸許可申請に遺族会の署名を求めていたが遺族会は拒否し、そののちに行われた議員連盟の慰霊祭や地方議員らの上陸を厳しく批判している[30]

犠牲者に対する補償も行われていなかったが、1969年に石垣市から決死隊員や船大工に対して感謝状と記念品が贈られた。1972年(昭和47年)には、石垣町民34人に対して見舞金3万円ずつの給付と叙勲があった。別に、戦死した軍属船長ら3人は恩給の対象となっている。沖縄外地引揚者協会は、本事件が「軍命」による疎開で発生したと主張して、対馬丸犠牲者同様の給付を求める運動を行っている[22]。これに対する日本政府の見解は、軍人軍属と同視できる沖縄地上戦死者のような特別の事情を欠くので恩給対象外であり、対馬丸遭難学童のような特別支出をすべき事情も無いとしている[31]


注釈

  1. ^ 日本側回想では、3度目の攻撃で船体中央部にロケット弾が命中して火災が起きたとするものがある[5]
  2. ^ 回想では「クバ島」と呼んでいる例もあるが、ここでは久場島ではなく魚釣島の別名。
  3. ^ 1人は崖から転落死したとする回想もある[18]

出典

  1. ^ a b c d 琉球新報 1983年12月14日
  2. ^ a b 沖縄県教育委員会(1974年)、116頁。
  3. ^ a b 沖縄県教育委員会(1974年)、214頁。
  4. ^ a b c 沖縄県教育委員会(1974年)、130-131頁。
  5. ^ a b c 沖縄県教育委員会(1974年)、121頁。
  6. ^ a b 沖縄県教育委員会(1974年)、127頁。
  7. ^ a b c 琉球新報 1983年12月15日。
  8. ^ a b c d 『米海軍資料に見る海の沖縄戦展』
  9. ^ a b c 沖縄県教育委員会(1974年)、135頁。
  10. ^ a b c 琉球新報 1983年12月16日。
  11. ^ a b c 沖縄県教育委員会(1974年)、118頁。
  12. ^ 沖縄県教育委員会(1974年)、128頁。
  13. ^ a b c 沖縄県教育委員会(1974年)、119頁。
  14. ^ a b 琉球新報 1983年12月21日。
  15. ^ 沖縄県教育委員会(1974年)、136頁。
  16. ^ 琉球新報 1983年12月22日。
  17. ^ 沖縄県教育委員会(1974年)、123頁。
  18. ^ a b 沖縄県教育委員会(1974年)、120頁。
  19. ^ 琉球新報 1983年12月23日
  20. ^ 沖縄県教育委員会(1974年)、18頁。
  21. ^ 防衛研修所戦史室(1968年)、614-615頁。
  22. ^ a b c 琉球新報 1983年12月24日。
  23. ^ a b 防衛研修所戦史室(1968年)、616頁。
  24. ^ 沖縄県教育委員会(1974年)、12-13頁。
  25. ^ 琉球朝日放送尖閣諸島 戦時遭難者慰霊祭 2009年7月4日。
  26. ^ 石垣市長 中山義隆尖閣諸島での慰霊祭等実施のための上陸許可について(要請)』(PDF) 2011年6月10日。
  27. ^ 沖縄タイムス「紛争の火種」懸念 尖閣慰霊祭に執着せず 2011年7月4日。
  28. ^ “尖閣の疎開船遭難者を慰霊 洋上でも19日開催”. 東京新聞. (2012年8月19日). http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2012081801001754.html 2012年8月19日閲覧。 
  29. ^ “尖閣諸島に日本人10人が上陸=慰霊祭参加者―海保”. wsj.com (ウォール・ストリート・ジャーナル). (2012年8月19日). http://jp.wsj.com/Japan/Politics/node_496922 2012年8月19日閲覧。 
  30. ^ 毎日新聞尖閣上陸:「慰霊祭利用された」 遺族会、署名を拒否/沖縄 2011年8月21日。
  31. ^ 内閣総理大臣 小渕恵三第143回国会 答弁書第2号』 1998年9月8日。


「尖閣諸島戦時遭難事件」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「尖閣諸島戦時遭難事件」の関連用語

尖閣諸島戦時遭難事件のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



尖閣諸島戦時遭難事件のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの尖閣諸島戦時遭難事件 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS