小野芳彦
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参考文献
- 笠原 正夫、1989、「「熊野年代記」と近世の熊野」、熊野三山協議会・みくまの総合資料館研究委員会(編)『熊野年代記』、熊野三山協議会 pp. 339-343
- 熊野三山協議会・みくまの総合資料館研究委員会(編)、1989、『熊野年代記』、熊野三山協議会
- 小島 瓔禮、2008、「柳田國男と『熊野年代記』」、『諸國叢書』(22・23)、成城大学民俗学研究所 pp. 374-415
- 根井 浄、2001、『補陀落渡海史』、法蔵館 ISBN 4-8318-7533-3
- 林 雅彦、2004、「「熊野学」研究をめぐって」、『国文学 解釈と鑑賞』69巻3号(平成16年3月)、至文堂、NAID 40006096064 pp. 11-15
- 山崎 泰、2004、「小野芳彦と『熊野史』上梓」、『国文学 解釈と鑑賞』69巻3号(平成16年3月)、至文堂、NAID 40006096067 pp. 19-26
- 山本 殖生、2003、「「熊野」研究の軌跡と展望」、『国文学 解釈と鑑賞』68巻10号(平成15年10月)、至文堂、NAID 40005919242 pp. 177-184
関連項目
- 和歌山県立新宮高等学校 - 小野が教壇に立った旧制和歌山県立新宮中学校の後身。
- 熊野年代記 - 新宮の本願庵主梅本家が編述した編年体の歴史書。
- ^ 新宮市(当時は新宮町)では、1873年(明治6年)に初めて小学校が設立され、1975年(明治8年)には新宮市下本町にある丹鶴小学校と同市熊野地の蓬莱小学校の2校に再編された。しかしながら教員不足が著しく、その解決のために設けられた教員養成所がこの小学学科伝習所で、丹鶴小学校内に設置された[山崎 2003: 20]。
- ^ 山崎[2004: 21]
- ^ 山崎[2004: 19、25-26]
- ^ 山崎[2004: 25-26]
- ^ 山崎[2004: 19]
- ^ a b c 山崎[2004: 26]
- ^ 新宮市(編)、1970、『新宮市誌』、新興出版社(原著1937年) pp. pp.884-885
- ^ 『熊野史』序文
- ^ 山崎[2004: 23-24]
- ^ a b 山崎[2004: 25]
- ^ 山崎[2004: 22]
- ^ 山崎[2004: 24]
- ^ 林[2004: 11]、山本[2003: 177]。他に宮家準「熊野信仰の研究成果と課題」(宮家 準、1990、「第六篇 熊野信仰の研究成果と課題」、宮家 準(編)『熊野信仰』、雄山閣〈民衆宗教史叢書 第21巻〉 ISBN 4-639-00964-X pp. 357-393)では熊野の歴史を全般的に論じた著作として、五来重「はしがき」(五来 重、1975、「はしがき」、五来 重(編)『吉野・熊野信仰の研究』、名著出版〈山岳宗教史研究叢書 第4巻〉 pp. 一-六)では、宮地直一の業績に先行するものとして言及されている。
- ^ 山本[2003: 177]
- ^ 林[2004: 11]
- ^ a b c 笠原[1989: 340]
- ^ 根井[2001: 113]
- ^ 根井[2001: 110]、熊野三山協議会・みくまの総合資料館研究委員会[1989]
- ^ 小島[2008: 377-379]
- ^ 小島[2008: 376]
- ^ 小島[2008: 375]
- ^ 小島[2008: 379、381]
- ^ 小島[2008: 383]
[前の解説]
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