奈良時代 対外関係

奈良時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/23 17:28 UTC 版)

対外関係

618年に代わって中国を統一したは大帝国を築き、東アジアに広大な領域を支配して周辺諸地域に大きな影響をあたえた。西アジア中央アジアなどとの交流も活発であり、首都長安国際都市として繁栄した。玄宗の治世前半は「開元の治」と称された。周辺諸国も唐と通交して漢字儒教・漢訳仏教などの諸文化を共有して、東アジア文化圏が形成された。

東夷の小帝国

その中にあって日本の律令国家体制では、天皇は中国の皇帝と並ぶものであり、唐と同様、日本を中華とする帝国構造を有していた。それは国家の統治権が及ぶ範囲を「化内」、それが及ばない外部を「化外」と区別すると、さらに化外を区分して唐を「隣国」、朝鮮諸国(この時代には新羅と渤海)を「諸蕃」、蝦夷・隼人・南島人を「夷狄」と規定する「東夷の小帝国」と呼ぶべきものであった[6][7]。律令に規定後、それを自負したり目指したことと、とりわけ唐や朝鮮諸国との関係に実態がともなったかどうかは別の問題である。

東大寺の正倉院
聖武天皇・光明皇后にかかわる遺品が数多く収められている

630年犬上御田鍬にはじまる日本からの遣唐使は、奈良時代にはほぼ20年に1度の頻度で派遣された。大使をはじめとする遣唐使には、留学生や学問僧なども加わり、多いときには約500人におよぶ人びとが4隻の船に乗って渡海した。日本は唐の冊封は受けなかったものの、実質的には唐に臣従する朝貢国の扱いであった[2]。使者は正月朝賀に参列すると、皇帝を祝賀した。当時の造船術や航海術はなお未熟な点も多く、海上での遭難も少なくなかった。危険を冒して遣唐使たちは、多くの書籍やあるいはすぐれた織物銀器陶器楽器などを数多く持ち帰り、また、唐の先進的な政治制度や国際色豊富な文化を持ち帰り、当時の日本に多大な影響をあたえた。中でも知識に対する貪欲さはすさまじく、皇帝から下賜された品々を売り払って、その代価ですべて書籍を購入して積み帰ったと唐の正史に記されるほどであった[8]。文物だけでなく、知識を身につけた留学生や留学僧も日本に戻って指導的な役割を果たしている。とくに、帰国した吉備真備玄昉は、後に聖武天皇に重用され、政治の世界でも活躍した。

新羅

白村江の戦いののち朝鮮半島を統一した新羅との間にも多くの使節が往来した。ところが、7世紀末から8世紀代の日本は(唐を「隣国」、新羅・渤海を「蕃国」とする)律令体制を築く過程で、中華意識を高めており、新羅を「蕃国」として位置づけ、従属国として扱おうとしたため、度々衝突が起きた(田村圓澄)。これにより、遣唐使のルートも幾度か変更されている。新羅は、半島統一を巡って唐と戦争中であり、背後の日本が唐側に着かないように唐を牽制するため[9]使節を送り続けていた。唐と交戦している状況であったため8世紀初頭までは日本側の朝貢形式を容認していた[10]が、渤海の成立後に唐との関係が好転した新羅は、朝貢してまで日本との関係を維持する必要がなくなったため、対等外交を主張するようになった。日本はこれを認めなかった。両国の関係悪化が具体化すると、新羅は日本の侵攻に備えて築城(723年、毛伐郡城)する。日本でも一時軍備強化のため節度使が置かれた[11]737年には新羅征討が議論に上った。この時期に日本では天然痘が大流行しており、政治の中心人物であった藤原武智麻呂をはじめとする藤原四兄弟、高位貴族が相次いで没して政治を行える人材が激減、国内が混乱に陥ったため、現実のものとはならなかった。 755年安史の乱が起こり唐で混乱が生じると、新羅に脅威を抱く渤海との関係強化[12]を背景に藤原仲麻呂は新羅への征討戦争を準備している(渤海との共同作戦を大前提にしていたが、渤海側に拒否されたため、開戦は延期されつづけ、最終的には仲麻呂の没落によりやはり実現しなかった)。このように衝突には至らなかったが、日本側の要求に応じてまで国交を維持する必要のなくなった新羅は使節の派遣を止め、779年を最後に途絶えることとなった。

上記のような説には異論が出されている。新羅は日本側の臣称・上表形式の国書を送るようにとの要求に対して、国交が断絶する最後まで、新羅王の国書自体を一回も送らなかった。新羅が唐の圧力を受けている間は、「新羅の使節」は日本への朝貢形式を容認していたが、八世紀中葉以降日本の朝貢要求を拒否するようになる。新羅王が日本に一度も国書を送っておらず、そもそも新羅が日本の朝貢体制を認めていたか疑問であり、新羅の使節が現地で誤魔化したのかもしれない(堀敏一)。また、川本芳昭は新羅が中国皇帝にしか許されない建元を日本より100年以上早く行うなど、その中華意識から考えて、上記のような説には一定の問題があるとしている。 こうした一方で、新羅は民間交易に力を入れ、唐よりも日本との交流が質量ともに大きく、現在の正倉院に所蔵されている唐や南方の宝物には新羅商人が仲介したものが少なくないとされている[13]。8世紀末になると遣新羅使の正式派遣は途絶えたが、新羅商人の活動はむしろ活発化している。

渤海

713年靺鞨族が主体となって旧高句麗人(狛族)と共に中国東北部に建国した渤海とは緊密な使節の往来がおこなわれた。渤海は、唐・新羅の対抗上727年(神亀4年)に日本に渤海使を派遣して国交を求めた。唐・新羅に挟まれ、加えて支配下の黒水靺鞨の反乱など内外の危機的状況から、「蕃国」高句麗の後継として朝貢形式を求める日本に妥協し、朝貢使節とすることを容認した。渤海からの国書においても渤海の危機的状況に比例・反比例して日本の中華意識に迎合する文言が増減した。日本側は渤海を「蕃国」高句麗の再来としてその朝貢を歓迎すると共に[14]、新羅との対抗関係から、渤海との通交をきわめて重視し、遣渤海使を派遣した。日本は新羅同様、渤海に対しても臣称・上表形式(臣下と称して、君主に文書を奉るという形式)の国書の送付を求めた。渤海は新羅と異なり国書こそ日本へ送付したが、その形式は「啓」というものであった。[注釈 2]個人間の通信に用いる「啓」を国家間の公式文書に用いたのは渤海がアジアで初めてである。啓は国書に用いられる形式ではなく、個人間の起居を問う書信文であるから、国書の一般的な目的には合致しており、本来、上行文書であるから、相手国に対する丁重な態度を示すことになる。このような個人的な通信文を国書に転用したのは渤海の知恵だったと考えられている。あくまで「臣称・上表」形式を求める日本側はこれを度々批判したが、渤海は一貫して「臣称・上表」形式の国書の送付を拒否した。結局、日本側も啓を「慣例」として認めた。例外的に渤海が上表形式の国書を送った記事が続日本紀に記載があるが、記事は宝亀年間にのみ集中しており、渤海からの啓を上表と見做したと考えられている。

唐との関係が改善されると、渤海使の軍事的役割は低下し交易の比重が重くなり、来日の頻度も増えていった。平安時代初期には完全に変質した。824年には右大臣藤原緒嗣が「渤海使は商人であるので、今後は外交使節として扱わないように」と述べたほどであった[15]。 一方、日本から渤海に送られた国書は天皇からの慰労詔書形式であるが、その書き出しは新羅に対するもの同様、一貫して「天皇敬問渤海国王」あるいは「天皇敬問渤海郡王」であった。この書式は中国に倣ったもので、中国では対等国ないし特別に尊重すべき相手国に出す書式であった。渤海や新羅を臣属国としようとしたのは、あくまで日本側の思惑であって、実際は日本の思惑通りにはいかなかった。国家間の臣属関係は官職の授与による「冊封」を通じて初めて成立するが、日本と新羅・渤海間に冊封関係は成立しなかった。そのような関係がおのずから丁重な形式の採用になった。

隼人と南島

九州南部は、古墳時代地下式横穴墓板石積石棺墓(地下式板石積石室墓)・土壙墓などの独特な墓制が出現した地域であり[16]、この地域の人々は古くは熊襲、7世紀後半ごろからは隼人と呼ばれるようになる[注釈 3]。5世紀末ごろから徐々に大和政権の影響が浸透していたが、大宝律令が施行された時点でも依然として律令制的支配の及ばない地域だった。699年に三野城・稲積城が築かれ、律令国家は軍事力を背景とした支配を進めはじめる。709年には隼人の朝貢制度が始まり、朝廷において蝦夷とともに異民族たる「夷狄」が服属していることを示す。国家の儀礼において重要な役割を与えられた[17]。しかし支配への抵抗も強く、特に720年には7年前に新設された大隅国の国守陽侯史麻呂が殺害される事件が起こった。これに対して律令政府は大伴旅人を大将軍として大規模な軍を派遣後、翌年までかかって鎮圧した(隼人の反乱)。その結果722年にははじめて造籍が行われ、以後隼人の組織的な抵抗はなくなった。ただ奈良時代における隼人はあくまで朝貢の対象であり、大隅・薩摩の両国に班田が行われるのは、平安時代に入った800年(延暦19年)のことである。

一方今の南西諸島からは、すでに7世紀の前半から使者が大和政権に「朝貢」するようになっていたが、698年には覓国使が南島に派遣され、翌年多褹(種子島)、夜久(屋久島)、菴美(奄美大島)、度感(徳之島)が朝貢に訪れ、702年には行政組織としての多禰島が設置された。南島からは工芸品の材料となる夜光貝や赤木といった特産物がもたらされ、また南島へは鉄器がもたらされた[18]大宰府跡からは「掩美嶋」(奄美大島)・「伊藍嶋」(沖永良部島か)と書かれた木簡が出土しており、また奄美大島奄美市の小湊・フワガネク遺跡から夜光貝による貝匙製作跡が見つかっている。9世紀になると「国なくして敵なく、損ありて益なし」といわれたように律令国家の関心は薄くなっていった[19]

蝦夷

歴史上、蝦夷と呼ばれる人々がどのような人々であったのかはいまだにさまざまな論があるが、何であれ中華思想に基づいた律令国家にとっては、「自らの支配下の外側にある人々という概念」でしかなかった[20]

しかし、奈良時代になると平城京の造営や軍団の整備により財政が悪化したことから、それまで支配下とは考えていなかった蝦夷からも徴税するため、大規模な侵略を始めたことで戦いが激化した[21]。7世紀半ばに阿倍比羅夫らが現在の秋田や津軽地方、さらにその北方に至ったとされるが、8世紀初頭に律令国家に安定的に組み込まれていたのは、今の山形県庄内地方や宮城県中部以南までであった。当時は城や柵(城柵官衙と呼ばれる施設)が作られ、その周囲に柵戸と呼ばれる民が関東や北陸地方から移民させられて耕作に当たっていた。郡山遺跡(宮城県仙台市)は当時の中心的な官衙であったとみられている。平城遷都の前後から政府は急速な拡大政策をとる。708年には越後国に出羽郡をおき、712年には出羽国とした。また東海・東山道諸国の民を城柵に移す。農耕や防衛に当たらせた。これに対して蝦夷は709年および720年に反乱を起こすと、720年の時には陸奥按察使上毛野広人が殺害される事態となった。政府は大軍を発してこれを鎮圧、新たに郡と柵、さらにこれらを統括する施設として多賀城を建設した。一方日本海側では733年に出羽柵が現在の秋田市に移設された(後の秋田城)。

その後政府は蝦夷の首長を郡司に任命して部族集団の間接的な支配を行い、また個別に服属してきた者は俘囚として諸国に移民させられたりした[22]。こうして東北地方南部は徐々に律令制の内部に組み込まれていくが、東北地方北部以北は依然として律令国家の支配外であった。しかし文化・経済の交流は続き、擦文文化には出羽地方の古墳の影響を受けた末期古墳が築造され、また恵庭市では和同開珎も出土している[23]

藤原仲麻呂政権は対蝦夷政策も積極的に行った。757年天平宝字元年)に仲麻呂の子朝狩が陸奥守となり、新たに勢力外だった土地に桃生城および雄勝城を建設した。また762年多賀城を改修し、蝦夷への饗給(きょうごう)を行うにふさわしい壮大な施設へと変えた。仲麻呂の死から10年後の774年宝亀5年)には桃生城が蝦夷に攻撃されて放棄される事件が起き(桃生城襲撃事件)、これ以降三十八年戦争といわれる、征夷と騒乱の時代へと突入する。780年(宝亀11年)には伊治呰麻呂が陸奥按察使紀広純を殺害し多賀城を焼き払うという事態(宝亀の乱)に至った。この騒乱状態は奈良時代の間には収束せず、平安時代へと引き継がれる。後に藤原緒嗣により「今天下の苦しむところは軍事と造作なり」と指弾されることとなる対蝦夷戦争は、「天皇の政治的権威の強化に大きな役割を担っていた」[24]のである。


注釈

  1. ^ いわゆる鑑真将来経。
  2. ^ この「啓」は特殊な性質を持っている。唐六典一左右司郎中員外郎条や司馬氏書儀などの中国の書物によれば、官庁の長官に官人が上申する時に用いられる形式であるほか、親族間における尊属・長属や婦人の夫に対するもの、尊属だけでなく卑属の逝去を慰問する時、吉凶の挨拶や起居を通ずる場合、忠告・祝賀・謝礼・知人の推薦等、多岐に渡って用いられた。そのため「啓」は「私書」「家書」に分類され、「公文に施す所に非ず」、即ち、個人的な通信に使用するもので国家間の公式なやり取りにはふさわしくないものとされた。
  3. ^ ただし、地下式横穴墓板石積石棺墓などの九州南部の地下式墓制を熊襲・隼人と直接結びつける考え方は、現在では行われていない。

出典

  1. ^ 北山(1979)[要ページ番号]
  2. ^ a b c 吉田(1992)
  3. ^ 小澤 (2005) pp.142-148
  4. ^ 佐藤 (2002) p.20
  5. ^ 鐘江 (2008) p.88
  6. ^ 石母田 (1989) pp.15-17
  7. ^ 酒寄 (2002) pp.271-272
  8. ^ 鐘江 (2008) p.134
  9. ^ 鐘江 (2008) p.78
  10. ^ 森公章『「白村江」以後』講談社、1998年、ISBN 4062581329
  11. ^ 酒寄 (2002) p.285
  12. ^ 酒寄 (2002) p.295
  13. ^ 石井(2003)
  14. ^ 酒寄 (2002) p.283
  15. ^ 酒寄 (2002) pp.296-305
  16. ^ 酒寄 (2002) p.274
  17. ^ 鐘江 (2008) pp.156-157
  18. ^ 鐘江 (2008) pp.158-159
  19. ^ 酒寄 (2002) pp.306-307
  20. ^ 鐘江 (2008) p.149
  21. ^ 「エミシ」と「エゾ」”. 青森県立郷土館. 2013年7月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月5日閲覧。
  22. ^ 酒寄 (2002) pp.280-281
  23. ^ 酒寄 (2002) pp.287-290
  24. ^ 酒寄 (2002) p.304






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