大谷刑部
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/05 05:43 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動国定忠治の子。幼名は寅次、法名は千乗、諱は国次(くにつぐ)。「大谷千乗」「大谷国次」とも。
生涯
上野国出身。父の処刑後に寺に入れられて出家して、下野国出流山(現在の栃木県栃木市)にある千手院満願寺に入る。慶応3年(1867年)11月、薩摩藩士ら志士による倒幕の挙兵(出流山事件)が発生すると、これに共感して倒幕軍に参加し、還俗して大谷刑部国次と名乗った。
地元に詳しい参加者として軍資の調達に奔走するが、岩船山の戦いで幕府軍に捕らえられ,慶応3年12月18日佐野河原で処刑された[1]。
参考文献
- 「大谷國次」『日本人名大事典』第4巻、平凡社、1979年、P566.
脚注
- ^ 山田風太, 郎; 日下三, 蔵 (2013-03-11). 斬奸状は馬車に乗って 時代短篇選集2. 小学館
外部リンク
- 1 大谷刑部とは
- 2 大谷刑部の概要
- 大谷刑部のページへのリンク