司馬炎
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人物像
『晋書』「劉毅伝」には、ある時司馬炎が「自分は漢代の皇帝の誰に匹敵するか」と司隷校尉を務めていた劉毅に問うた際のエピソードがある。劉毅は当時暗君の代表格とされていた「桓帝・霊帝」と比較できると回答した。司馬炎はそれに対して少し厳しすぎるのではないかと言うと、劉毅は「桓帝・霊帝は売官して得た金を国庫に入れていたが、陛下は私門に入れている。そこだけを見れば桓帝・霊帝以下である」と答えた。司馬炎はこれを聞くと大笑いして、「桓帝や霊帝の時代には、こんな言葉を聞く事はなかった。今は直言の士がいるから同じではないだろう」と答えた。散騎常侍の鄒湛はこれを聞いて、名君の代表格であった文帝にまさると述べている。このエピソードは司馬炎が売官によって私腹を肥やしていたことと、諫言について鷹揚な態度を見せていたことを窺える。また、陳寿は『三国志』において呉最後の皇帝であった孫晧を厳しく批判しているが、そんな孫晧をも赦免されたのは「(司馬炎の)寛大なる恩、過度の厚遇ではないか」と記している。
逸話
樊建が給事中であったとき、司馬炎が諸葛亮の治政について質問したところ、樊健は、「自分の悪い点を知らされれば必ず改めて、過ちを強引に押し通すことはせず、賞罰の間違いのなさは、神明を感動させるに足るほどでした」と答えた。司馬炎が「立派だ。わしがこの人(諸葛亮)を手に入れて自分の補佐役にしていたならば、今日の苦労はなかったであろう」と言うと、樊健は、額を地に着けてお辞儀をし、「臣(わたくし)が密かに天下の噂を聞きますに、みな鄧艾が無実の罪を着せられていると申しております。陛下はご存じでありながら処理なされません。これこそ馮唐が言った『廉頗・李牧を手に入れても起用できない』という言葉に当たらないでしょうか」と言った。司馬炎は笑って、「わしはこのことをはっきりさせようと思っていたところだ。君の言葉は、わしの気持ちを呼び覚ましてくれた」と言った。かくて、詔勅を発して鄧艾の無実をはっきりさせた。
宗室
后妃
- 元皇后楊艶、悼皇后楊芷(元皇后の再従妹)
- 貴嬪胡芳、夫人諸葛婉、貴人左棻
- 淑妃公孫氏、淑媛臧曜、淑儀趙芳、修華趙粲、修容陳琇、修儀左嬪、婕妤邢蘭、容華朱姜
- 審美人、徐才人、匱才人、趙才人、趙美人(趙才人の妹)
- 李夫人、厳保林、陳美人、諸姫、程才人、才人謝玖、中才人王媛姫
子女
- 毗陵悼王 司馬軌(正則)2才で逝去。(母:楊元后)
- 恵帝 司馬衷(正度)(259年 - 306年)(母:楊元后)
- 秦献王 司馬柬(弘度)(262年 - 291年)(母:楊元后)
- 城陽懐王 司馬景(景度)(? - 270年)(母:審美人)
- 城陽殤王 司馬憲(明度)(270年 - 271年)(母:徐才人)
- 楚隠王 司馬瑋(彦度)(271年 - 291年)(母:審美人)
- 東海沖王 司馬祗(敬度)(271年 - 273年)(母:匱才人)
- 始平哀王 司馬裕(濬度)(271年 - 277年)(母:趙才人)
- 代哀王 司馬演(宏度)(? - ?)(母:趙美人)
- 淮南忠壮王 司馬允(欽度)(272年 - 300年)(母:李夫人)
- 新都懐王 司馬該(玄度)(272年 - 283年)(母:厳保林)
- 清河康王 司馬遐(深度)(273年 - 300年)(母:陳美人)
- 汝陰哀王 司馬謨(令度)(276年 - 278年)(母:諸姫)
- 長沙厲王 司馬乂(士度)(277年 - 304年)(母:審美人)
- 成都王 司馬穎(章度)(279年 - 306年)(母:程才人)
- 呉孝王 司馬晏(平度)(281年 - 311年)(母:李夫人)
- 勃海殤王 司馬恢(思度)(283年 - 284年)(母:楊悼后)
- 懐帝・豫章王 司馬熾(豊度)(284年 - 313年)(母:王才人)
その他8人の男子
- 平陽公主(母:楊元后)
- 新豊公主(母:同上)
- 陽平公主(母:同上)
- 武安公主(母:胡貴嬪)
- 広平公主
- 滎陽公主
- 滎陽公主
- 襄城公主 司馬修褘
- 繁昌公主
- 潁川公主
- 霊寿公主 司馬修麗
- 万年公主
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