原口祐之 海軍省

原口祐之

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/29 19:32 UTC 版)

海軍省

明治9年(1876年)12月海軍省中録に転出、祐之の長男原口祐秋(はらぐちすけあき)の伝記によると、時期が定かでない建築物に「竹橋の兵営」の記載がある。軍関係に籍を置いているのはこの時期だけであり、祐之の他の建造物の建築年表から勘案すると、この時期に建築されたものと推測される。

酒田・山形

酒田県は明治8年(1875年)8月に鶴岡県になり、翌年には山形県・置賜県と合併して山形県となった。祐之は新たに鶴岡・山形県の土木課四等属(十等出仕)に配せられる。県令である三島通庸の山形における政策の中心は、道路・橋梁整備と公共施設の建築であった。江戸時代までの山形地域は、日本海と最上川を経由する舟運により、江戸よりも大坂と強く結びついていた。しかし明治時代に陸運が重視されると、陸路による東京までの交通整備が進められた。

明治13年(1880年)に米沢、福島間に萬世大路(万世大路)こと栗子街道を、明治15年(1882年)には山形、仙台間に関山街道を完成させた。この両道は、馬車が通行可能な規格で作られた。こうして山形県の産物が陸路で福島や仙台に出て、ついで奥州街道や鉄道による東京への輸送路が確立した結果、県経済は活況を呈した。三島の命を受けた祐之は、他にも隣県に通じる車馬通行可能な道路をいくつも建設した。栗子山隧道(後の栗子トンネル)、関山隧道関山トンネル)等のトンネル工事、多数の橋梁工事が行われた。また、羽州街道須川に石造の常盤橋を作った。これらの道はのちに国道13号国道48号となり、トンネルや橋梁の代替わりやバイパス化を経ながらも、明治以降の物流の変化によく対応し利用されることになる。

建築では、県庁・病院・学校などを当時としては大きな規模で多数作った。

銀座煉瓦街で国家規模の建築を指導した祐之の経験が発揮され、当時世界でも最新のトラス工法や日本古来の伝統技法である五重の塔建築技術を融合させた工法で建設された。

現存するものに旧済生館病院本館(重要文化財)・旧東村山郡役所・旧東田川郡役所、現存しないものでは山形県庁舎、鶴岡の朝暘学校などがある。これらは擬洋風建築で建てられたが、作業に従事した棟梁たちがその後も形式を踏襲したため、東北地方には多数の擬洋風建築が存在することとなった。洋画家高橋由一は、これらの建築物や都市の景観を描いている。

また、三島通庸のお抱えの写真家でもある菊地新学により建築物・橋梁の写真が残されている。

福島

明治15年(1882年)、福島県に県令として着任した三島に続き、祐之も移籍する。

越後街道、会津街道、山形街道の3つの街道(会津三方道路)の建設にたずさわり、福島市につながる信夫橋は13連のアーチを誇り、国内随一の美しい橋として錦絵ともなった。

信夫橋に使われた親柱が現在も地元の幼稚園の園庭に残っている。







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