南下古墳群 概要

南下古墳群

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/12 23:07 UTC 版)

概要

群馬県中部、榛名山東麓において、利根川に注ぐ小河川(駒寄川・午王頭川)が入り組んで発達した小丘陵(大林山)の南斜面に築造された古墳群である[1][2]。一帯にはかつて100基以上[3](または108基[2])の古墳が存在したというが、現在は9基が遺存する[4]

現在石室が開口するのはA・B・C・D・E号墳の5基で、いずれも埋葬施設を横穴式石室とする。特にA・B・E号墳は有力墳と位置づけられ、高さのある畿内系石室のB号墳から、截石切組積み石室のA・E号墳への変遷が認められる。またA・E号墳には壁面に石室構築時の赤色作業線が残されており、全国でもA・E号墳と上庄司原4号墳(前橋市)の3基のみの例として注目される。

築造時期は、古墳時代後期-終末期6世紀中葉-7世紀末頃と推定される。有力古墳の石室が開口状態で遺存しており、石室の規模・構造から石室の発展過程を追える点で貴重な古墳群になる。加えてB号墳→A号墳→E号墳の変遷については、上毛野地域の最有力首長墓群である総社古墳群(前橋市)の愛宕山古墳宝塔山古墳蛇穴山古墳の変遷との同調関係が注目される[5]。ただし南下古墳群の場合には山寄せ古墳を主体とする点で平地古墳を主体とする総社古墳群よりも畿内的要素が強く、また南東には畿内色の極めて強い正八角形墳の三津屋古墳(吉岡町大久保)も存在することから、総社古墳群を支える南下古墳群勢力と畿内ヤマト王権による上毛野地域の中央集権化との関係を考察するうえで重要視される古墳群になる[5]

A-F号墳の6基は2023年令和5年)に群馬県指定史跡に指定されている。現在では史跡整備のうえで史跡公園として公開されるが、石室内部への立ち入りは制限されている。


  1. ^ 南下古墳群(平凡社) 1987.
  2. ^ a b 南下古墳群(古墳) 1989.
  3. ^ a b c d e f g h i j k 南下古墳群パンフレット。
  4. ^ a b c d e 史跡説明板。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 右島和夫 2019.
  6. ^ 令和5年9月8日群馬県報 (PDF) より群馬県告示第237号 (群馬県ホームページ)。





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