前田秀樹
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/02 20:32 UTC 版)
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名前 | ||||||
カタカナ | マエダ ヒデキ | |||||
ラテン文字 | MAEDA Hideki | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1954年5月13日(69歳) | |||||
出身地 | 京都府京都市右京区 | |||||
身長 | 169cm | |||||
体重 | 65kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF、DF | |||||
ユース | ||||||
1969-1971 | 京都商業高校 | |||||
1972-1975 | 法政大学 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1977-1990 | 古河電気工業 | 209 | (35) | |||
代表歴 | ||||||
1974 | 日本 U-20 | |||||
1975-1984[1] | 日本 | 65 | (11) | |||
監督歴 | ||||||
1994-1996 | ジェフユナイテッド市原U-18 | |||||
1997 | ジェフユナイテッド市原U-15 | |||||
1998-1999 | 横河電機 | |||||
2003-2007 | 水戸ホーリーホック | |||||
2008- | 東京国際大学 | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
略歴
選手として
小学校 (京都市立太秦小) 時代にサッカーをはじめ、京都商業高校(現在の京都学園高校)で国体京都府代表に選出された。法政大学では関東大学リーグおよび大学選手権の優勝を経験した。大学卒業後は古河電気工業に所属し、1981年および1982年に日本サッカーリーグのベストイレブンを受賞した。
また、法大在学中より日本代表に選出。1980年代前半の日本代表で主将を務めた。
日本サッカーリーグの1988-89シーズンにて、元号が「昭和」から「平成」に替わった後の1989年2月26日、対住友金属工業戦で後藤義一からのコーナーキックを頭で合わせてゴールを決めた。これが「平成」初となる日本サッカー公式戦初得点であり、かつ前田自身の現役最後のゴールともなった[2]。
解説者として
1990年に引退後はサッカー解説者を務め、スカパー!では主に水戸戦の解説を担当。
また、1994 FIFAワールドカップ・アジア予選の日本代表×イラク代表戦(1993年10月28日、「ドーハの悲劇」)のテレビ中継で解説を務めた[2]。実況は久保田光彦で、久保田と前田のコンビは、当時放送されていた『ダイナミックサッカー』でも見られた。
指導者として
2003年よりJ2所属の水戸ホーリーホックの監督に就任[3]。「水戸ナチオ」と呼ばれる堅守速攻が特徴的であり、水戸ホーリーホックの新監督となった時に他クラブより劣っていた資金面・戦力面を徹底した専守防衛で補おうとした。守備時は全選手が自陣深くまで退き、攻撃はカウンター一筋でポゼッションは放棄していた。一部サポーターが「水戸ナチオ」と呼ぶようになり、2007年以降は攻撃的サッカーへ転換するが、水戸を代表する代名詞として用いられている。2007年のシーズン終了を以って、監督を退任[3]。
2008年1月25日、東京国際大学体育会サッカー部の監督に就任[4]。2013年より関東リーグ2部へ昇格。
所属クラブ
固有名詞の分類
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