保科正之
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/20 02:35 UTC 版)
系譜
- 実祖父:徳川家康
- 実父:徳川秀忠
- 実母:浄光院 - 於静、志津とも、神尾栄嘉の娘
- 養父:保科正光
- 正室:内藤政長の娘・菊姫(1619年 - 1637年)
- 長男:幸松(1634年 - 1638年) - 夭折
- 継室:聖光院(1620年 - 1691年) - 於万、藤木弘之の娘、かつては正之の異母姉・東福門院に仕えていた
- 側室:牛田氏(1623年 - 1651年)
- 三女:菊姫(1645年 - 1647年) - 夭折
- 四女:摩須(1648年 - 1666年) - 松姫、前田綱紀正室
- 側室:沢井氏
- 八女:金姫(1658年 - 1659年) - 夭折
- 側室:栄寿院(1645年 - 1720年) - 沖氏
- 六男:松平正容(1669年 - 1731年)
- 九女:算姫(1673年) - 正之の死後に誕生、夭折
於万の方(聖光院)について
正之の長女・媛姫は上杉家に嫁した後、実母・於万の方による四女・松姫(摩須)[注 3]の毒殺未遂事件で誤って毒を飲んで急死した、と伝わる。於万の方は、側室の産んだ摩須が自分の産んだ媛姫の嫁ぎ先より大藩の前田家に嫁ぐのが許せず、暗殺を謀ったらしい、とされる。事件後、媛姫は上杉家菩提所である林泉寺に葬られた。正之は、後の上杉家の綱勝急死の際の末期養子に関して援助している。摩須は無事に前田家に嫁した(しかし18歳で子を死産し、自身も早世した)。
会津家家訓の第4条には、婦女子について記載されているが、この説によれば、以上の事件が背景にあったものとされる。
以上の松姫毒殺未遂および媛姫誤認死亡は、お万の方が首謀者という説が現在定説になっている。その出所は会津藩の正史『会津藩家世実紀』で、本文中に「松姫の婚礼で実家へ里帰りしていた媛姫の具合が悪くなり婚礼の2日後に亡くなった」とある。その後に本文への小文字補填として、「毒が入った松姫の御膳がお付きの者の機転で取り替えられたため、媛姫がその毒入り膳を食べて死んだと伝わっている」とある。事実を述べた本文に対して、100年以上の後の編纂時にこういった噂があるといって付け加えた文が元になっている。正史の事実ではなく、後に加えられた言い伝えなのである。実際、『会津藩家世実紀』ではその後、媛姫は急病死とされ、保科家・上杉家とも一切捜査も処分もされた形跡がない。また、お万の方はその後も正之の正妻として同じ屋敷に住み、上杉、前田、稲葉家と後々まで親しく交際を続けている。正之の死後も2代藩主・正経の生母として絶大な影響力を保った。
明治以降、旧大名家へのタブーがなくなると、江戸研究家の三田村鳶魚がこういったエピソードを取り上げて発刊し、それが次第に知られて小説の元ネタになり広く知られるようになった。ただし、鳶魚は良し悪しいくつかある中、悪いエピソードのみ取り上げ、聖人といわれる保科正之が何でお万の方を寵愛したのかわからない、とお万の方を独断的に悪女と決めつけている。現在のお万の方悪女説は、こういった影響をかなり受けていると思われる。
注釈
出典
- ^ a b c d e 山形市市史編さん委員会、山形市市史編集委員会 1987, p. 185.
- ^ 福田千鶴『江の生涯』中公新書、2010年。
- ^ a b c 長谷川 2005, p. 19.
- ^ “保科正之は江戸時代初期の会津藩主。…”. 西日本新聞ニュース (2016年4月16日). 2020年10月6日閲覧。
- ^ 長谷川 2005, p. 18.
- ^ 長谷川 2005, p. 22.
- ^ a b c d 山形市市史編さん委員会、山形市市史編集委員会 1987, p. 188.
- ^ 長谷川 2005, p. 20.
- ^ a b c 山形市市史編さん委員会、山形市市史編集委員会 1987, p. 189.
- ^ 義民のあしあと『白岩義民(間沢村三霊供養碑(東泉寺))』
- ^ 『会津事始』「七木八草四壁竹本御定法事」
- ^ 氏家幹人『江戸時代の罪と罰』草思社、2015年、73-74頁。
- ^ 氏家幹人『江戸時代の罪と罰』草思社、2015年、76-78頁。
- ^ 『図説 福島県史』
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