佐喜眞興英 佐喜眞興英の概要

佐喜眞興英

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/24 08:42 UTC 版)

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1912年、沖縄県立第一中学校(現沖縄県立首里高等学校)を首席で卒業し。その後上京して1915年第一高等学校独法科を卒業し、東京帝国大学独法科に入学。在学中から柳田國男に目をかけられた。1921年に帝大を卒業すると、裁判官になり福岡市東京市大阪市岡山県津山市など各地に赴任。1925年、津山にて、肺結核のため31歳で死去。死後、穂積陳重の教えを受けて行った古代母権制研究が『女人政治考』として出版された[1]

家族

16歳で新城ウタと結婚し一女(貞子)をもうけるが28歳の時に離婚。同年、永原マツヨと結婚する。マツヨは学校法人永原学園佐賀短期大学などの創立者となった。

現在、宜野湾市で私立美術館(佐喜眞美術館)を運営する佐喜眞道夫は興英の孫にあたる。興英のひとり娘、貞子の次男。

著書

  • 1922年 - 『南島説話』炉辺双書、郷土研究社 
  • 1925年5月 - 『シマの話』炉辺双書、郷土研究社
  • 1926年 - 『女人政治考』岡書院 (佐喜眞の没後、柳田らによって出版された)

参考文献

佐喜真興英著、比嘉政夫・我部政男編『女人政治考・霊の島々〈佐喜眞興英全集〉 』(新泉社、1982年)

脚注


  1. ^ 柳田・穂積らとの関係については、稲福日出夫「大正期の或る青年法曹の足跡 : 佐喜眞興英と穂積陳重の接点」『同志社法學』52(6), 252-306, 2001-03。


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