五島崩れ その後

五島崩れ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/14 14:08 UTC 版)

その後

明治政府のキリシタンへの弾圧を知った長崎の外国領事たちから、当時の長崎府知事澤宣嘉への問い合わせに始まり、各国公使から政府当局宛のキリシタンたちに寛大な処置をするよう要望書が提出された。度重なる外国公使団からの抗議と、明治2年11月のイギリス公使ハリー・パークスの久賀島実情調査が行なわれたことで、拷問は中止[13]。主立った者を除き8ヵ月後に多くが放免されたが、全ての人が出牢するまでにはなお数年かかった[13]

明治6年(1873年)にキリスト教禁教を定めた五榜の掲示の高札が撤去され、キリシタンの摘発は終わった。しかし、江袋では高札の撤去後に、21人の信徒が郷民たちに拷問を受けた上、村を追い出され、家財道具は掠奪された[23]

五島列島では、その後もカトリックの信徒にならず、潜伏時代の信仰形態を維持し続けたカクレキリシタンの集落が存在したが、後継者難によってその多くが解散している[1]

史跡

牢屋の窄殉教記念聖堂
所在地 長崎県五島市久賀町大開
日本
教派 カトリック教会
歴史
守護聖人 殉教者の元后
管轄
教区 カトリック長崎大司教区
教会管区 カトリック長崎教会管区
聖職者
主教
(司教)
ペトロ中村倫明
主任司祭 トマス中田輝次
副主任司祭 シモン稲田祐馬
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牢屋の窄殉教記念聖堂
1969年、細石流(ざざれ)・永里・赤仁田の3教会を統合し、九州電力の発電所だった建物を転用して別の場所に開設。1984年に牢屋の窄殉教事件のあった地に移転のうえ聖堂を新築した。聖堂内部は中央部12畳分が灰色のじゅうたんで色分けされているが、これは信徒たちが押し込められた牢屋だった場所を意味している[24]。正面にある塔『信仰之礎』には、入牢させられたキリシタンたち190人の霊名と名前が刻まれている[19]
慰霊碑
牢屋の窄で殉教した犠牲者の名が刻まれている。記念教会と同様、久賀島の牢屋跡地に建てられている。丸い石を半分に割って牢死者の名前を刻んだものが2段になって並ぶ。右に21人、左に22人の計43人となっている[19]
久賀島の細石流集落のキリシタン墓地
牢屋の窄で殉教した信徒の1人の墓碑がある[2]
キリシタン洞窟
若松島の里ノ浦から逃げた3家族が隠れていた洞窟。彼らは焚火の煙が沖を行く船に見つかったことで捕えられて拷問にかけられ、殉教した。聖母マリアの姿に見えるとも言われる「針のメンド(針の穴)」と呼ばれる穴があいており、入口には十字架とキリスト像が立てられている[25]
頭ヶ島天主堂
頭ヶ島の教会。上五島地区の指導者・ドミンゴ森松次郎の屋敷跡に最初の聖堂が建てられた[26]。弾圧から逃れて外海や黒島を流転したキリシタンは、明治6年の禁教の高札撤去後に帰郷して荒廃した村の復興に努めた[27]
半分塚峠
浜脇教会から牢屋の窄へ向かう道にある峠。奥浦の人が、牢屋へ入れられた信者たちに渡そうと餅を持ってきたが、この峠で役人に捕まえられ餅を取り上げられたという[28]

小説


  1. ^ a b c d e f g h i j 「五島のキリシタン」H・チーリスク監修 太田淑子編 『キリシタン』 東京堂出版 、254-255頁。
  2. ^ a b c d e 長崎県高等学校教育研究会・地歴公民部会歴史分科会編 『長崎県の歴史散歩』 山川出版社 、同書236-238頁。
  3. ^ a b c d 文:吉田さらさ 『長崎の教会』 JTBパブリッシング 、82-83頁。
  4. ^ 「寛政九年藩主盛運、大村の農民一〇八人を五島に移し、田地を開墾せしむ。五島は地広く人少なくして、山林の未だ開けざるもの多きを盛運公常に憂い給い、此度大村候に乞うて、其の民を此地に移し給ふ。」(『公譜別録拾遺』)。
  5. ^ 当初、1000人を要請したことから、「千人養い人」または「千人貰い人」と称された。
  6. ^ 外海の土地は狭く痩せていて、子供を間引きして人口増加を抑制させられていた。
  7. ^ 外海地方には『子捨て郷』という地名も残っている(小崎登明 『西九州 キリシタンの旅』 聖母の騎士社、同書323頁)。
  8. ^ 片岡弥吉 『長崎のキリシタン』 聖母の騎士社、同書46 - 48頁。
  9. ^ 公譜別録拾遺・五島キリシタン史・五島村別郷土誌。
  10. ^ a b 小崎登明著 『西九州 キリシタンの旅』 聖母の騎士社、同書 18-19頁。
  11. ^ 『旅する長崎学 キリシタン文化Ⅳ』 長崎文献社、41頁。
  12. ^ 「一 浦上・天草・木場・五島」津山千恵著 『日本キリシタン迫害史 一村総流罪3,394人』 三一書房、113-115頁。
  13. ^ a b c d e 「五島のキリシタン弾圧」H・チーリスク監修 太田淑子編 『キリシタン』 東京堂出版、295-296頁。
  14. ^ 宮崎賢太郎 『カクレキリシタンの実像 日本人のキリスト教理解と受容』 吉川弘文館、120頁。
  15. ^ 片岡弥吉 『長崎のキリシタン』 聖母の騎士社、49-50頁。
  16. ^ 「入牢と拷問」片岡弥吉 『長崎のキリシタン』聖母の騎士社、160-163頁。
  17. ^ a b 《六坪の家牢に百九十人あまりが押し込められた》小崎登明著 『西九州 キリシタンの旅』 聖母の騎士社、95 - 96頁)。
  18. ^ a b c d 「牢屋の窄」 片岡弥吉 『長崎のキリシタン』聖母の騎士社、163-166頁。
  19. ^ a b c 《有名、無名、百九十人を刻んだ牢屋の窄の記念碑》小崎登明著 『西九州 キリシタンの旅』 聖母の騎士社 、94頁。
  20. ^ 小崎登明 『西九州 キリシタンの旅』 聖母の騎士社、97頁。
  21. ^ マルナス『日本キリスト教復活史』。
  22. ^ 隠れキリシタンの役職の1つ。
  23. ^ a b c d e f 「その他の迫害」 片岡弥吉 『長崎のキリシタン』聖母の騎士社、166-176頁。
  24. ^ なお、牢屋の窄殉教記念聖堂内部は原則として非公開となっているため、通常は中を見ることはできない。
  25. ^ 文:吉田さらさ 『長崎の教会』 JTBパブリッシング、98頁。
  26. ^ 文:吉田さらさ 『長崎の教会』 JTBパブリッシング、104-105頁。
  27. ^ 「頭ヶ島教会」『長崎県の地名 日本歴史地名大系43』 平凡社 、703頁。
  28. ^ 小崎登明 『西九州 キリシタンの旅』 聖母の騎士社、93頁。


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