中国空軍の上海爆撃 (1937年)
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八一四空戦
一方同日、日本海軍は台湾松山飛行場より新田慎一少佐率いる鹿屋海軍航空隊の九六式陸上攻撃機 9機、浅野楠太郎少佐率いる8機を飛ばし、杭州や広徳へ渡洋爆撃に向かわせた。しかし、周家口より飛び立った高志航中校率いる第4大隊に迎撃され、新田隊は2機未帰還・1機大破、浅野隊は1機不時着放棄の損害を受けた[21]。これは空中戦における中国空軍初の戦果となった。この事から、戦後に8月14日は中華民国空軍の記念日「空軍節」に指定された。1955年に三軍共通の軍隊記念日「軍人節」が制定され、現在でも台湾空軍ではこの日に盛大なイベントを催している[22]。
16日~25日
15日朝にようやく第二航空戦隊(加賀)が韮山列島沖に到着、紹興、南京、杭州へ空襲を行ったが大損害を出した(南京爆撃)。 午後には第一航空戦隊(鳳翔、龍驤)の艦載機が攻撃を試みたが悪天候で発進できず、神威の搭載機9機のみが杭州を爆撃[23]。同日夜に第三水雷戦隊(第一水雷隊欠)が上海に到着[24]。 16日、中国空軍は6回、のべ25機で上海、呉淞沖の艦船及び陸戦隊本部を爆撃した。日本軍は2機を撃墜したが若干の被害を受けた[25]。また16日以降から加賀に加えて第一航空戦隊(鳳翔、龍驤)と神威の搭載機が上海周辺で上空援護を行った[26]。
17日、中国空軍は昼間5回、夜間1回、のべ40機で飛来し、陸戦陣地、楊樹浦飛行場陣地、出雲他艦船が攻撃を受けたが損害はなかったとされる[27]。この日をピークとして航空戦は開戦初頭の混乱を脱し、落ち着きを見せた[27]。爆撃は25日まで行われた。
18日には第四水雷戦隊(第十一駆逐隊欠)・潜水母艦長鯨が、19日には摂津、矢風がそれぞれ陸戦隊輸送で上海に到着[28]。
23日に国際租界・南京通りの先施百貨店が航空機に爆撃され大きな被害が出た[29]。店員と客のちぎれた体の一部が散らばり、近くの建物の中の人間や、周囲の道路では通行人や信号整理の警官、通りがかりのバスの乗客が被害を受け、死傷した。が、日中両軍とも自軍の関与を否定し互いに相手を非難しており、この爆撃が中国軍によるものなのか、日本軍によるものかはっきりしない[13]。
日本軍による上海爆撃
16日以降に艦載機を飛ばせるほど天候が回復したため、加賀に加えて第一航空戦隊(鳳翔、龍驤)と神威の搭載機が虹橋飛行場などの上海周辺地域や上海市内の敵陣地に対して空爆を行い、16日に第一航空戦隊は敵機10機破壊と2機撃墜を記録[26]。 17日以降から神威が呉淞沖に移動して直接援護を行った[27]。 19日に第二十三航空隊及びその臨時の母艦となった潜水母艦大鯨が上海に到着。25日に第二十三航空隊は江南造船所を空爆し、係留されていた中華民国海軍の砲艦永建を撃沈した[30]。これは知られている中で日本軍航空機による艦船撃沈第一号である。 27日に第十二戦隊は第三航空戦隊となった[31]。
なお第三艦隊内で空爆により第三国の所有する資本に被害が出ていることが問題視され、22日に連合艦隊へ上海市内への空爆を見合すよう申し入れているが却下されている[32]。 26日には南京駐在の英国大使を乗せた車両が日本海軍機によって銃撃され、大使が重傷を負った。この時期、民間人被害は専ら、日本軍の高射砲の砲弾の破片や榴散弾の弾丸が落下しそれを受けた、ミスにより砲撃の着弾距離が足りずに近辺に着弾した砲弾の被害を受けたといったことが主体となっている[13]。
8月28日ほぼ2週間の戦闘の後、緊張が和らぎ、北部での軍事境界線が撤去されたように見えたが、日本軍は南側で攻撃に出ることを計画していた。南市の駅で避難のための列車を待っていた数百人の避難民の列に日本軍機の爆弾が落された。避難民の多くが女性、子供であったという。日本側は中国兵がいたためと主張したが、現場に入った外国人ジャーナリストらによって、この主張は完全に否定された。このとき、有名な泣く幼児の写真が撮られ、世界中に流れ、日本軍の戦闘活動に対する国際的な批判を高めた(参照:上海南駅の赤ん坊)[注釈 3]。この事件が、誤爆による民間人の最後の大規模被害となったが、戦闘はこの後も数週間続き、日本側の対空砲火の破片や砲撃ミスによる民間人の被害は続いた。泣く幼児の写真を撮ったカメラマンの首には日本側から賞金が懸けられ、そのため当人は上海を脱出することになったという[13]。
注釈
- ^ エドウィン・O・ライシャワーの実兄
- ^ 現実には、中国軍機より爆弾が落されてから爆発するところまでを確認した者はなく、先の爆弾架の被弾によるとする中国空軍の説明も、厳密には、爆弾を投下ではなく投棄したことへの説明である。実際に、日本艦出雲を狙ったものだけでなく、爆弾投棄によると思われる黄浦江での爆発も複数確認されている。また、競馬場への投棄という説も、フランス人警官が競馬場の方へ飛んでいく中国軍機を見て、競馬場に落とすかその先の黄浦江の出雲を再爆撃しようとしているものと思ったという証言に基づく。
- ^ この写真にはやらせや演出ではないかと疑う声もあるが、爆撃事件自体が実際に起こり、それが日本軍によって引き起こされたことについて否定する主張は現在までのところ聞かれない。
出典
- ^ ノース・チャイナ・デイリー・ニュース、1937年8月15日
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- ^ 新華軍事 淞滬会戦:奇襲日軍旗艦“出雲号”始末2010年08月22日
- ^ a b 中山 2007, p. 173.
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- ^ a b c 戦史叢書72 1974, p. 342.
- ^ ロンドン・タイムズ紙、1937年8月16日、"1,000 DEAD IN SHANGHAI/DEVASTATION BY CHINESE BOMBS"
- ^ a b c d e f g h i j k Christian Henriot. “August 1937: War and the death en masse of civilians | Christian Henriot - Academia.edu”. Academia.edu. 2022年6月12日閲覧。
- ^ 渡部昇一『渡部昇一の昭和史』ワック、2003年、274-275頁。ISBN 4898315135。
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- ^ 節日大搜尋-空軍節(国暦8月14日)
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- ^ “丁紀徐将軍二三事” (中国語). 広州文史. 2017年1月13日閲覧。
- ^ 戦史叢書72 1974, p. 506.
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