中国空軍の上海爆撃 (1937年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/04 13:59 UTC 版)
その後
この事件については当日に仏領事が、翌15日にはヒュー・ナッチブル=ヒューゲッセン英大使、ネルソン・ジョンソン米大使、ポール=エミール・ナジアル仏大使がそれぞれ中国側に空爆の抗議を行った。上海のフランス租界工部局も15日夕刻に、フランス租界上空に中国軍航空機が進入することを許さず、そのような場合には有効適切な処置を取ると発表した。実際に、16日にフランス租界上空を通過した中国軍航空機に対して、フランス駐屯軍は高射砲の一斉射撃を行っている[33][34]。
この爆撃に参加した者には特に処罰は下されなかった。しかし8月30日、今度は杭州湾に展開していた第4大隊22中隊が米国民間船「プレジデント・フーヴァー号」を日本の兵員輸送船と誤認して攻撃、船員数名が死亡する事件が起こった。アメリカ政府は駐米大使王正廷を国務省に召喚して厳重抗議を行い[35]、結果22中隊長の黄光漢は銃殺刑[36](のち恩赦)、第5大隊長兼駆逐司令官の丁紀徐に軍籍剥奪処分が下された[37]。
事件から半年後の1938年頭、周至柔は宋美齢との抗争に負けて失脚、空軍軍官学校教育長に左遷され、爆撃の責任者であった張廷孟もソ連空軍志願隊の連絡要員に左遷された。しかし、宋美齢が負傷して空軍への影響力が弱まり、銭大鈞が汚職で失脚すると復権した。
その後11月11日のノースロップ2E三機による空母加賀襲撃(命中せず)[38]などを除けば中国空軍に目立った動きはなく、開戦から1938年までの半年間で中国空軍は戦力の大部分を損失し、以後はソ連から派遣された空軍志願隊が中心となって活動することになる。
95式水上偵察機が迎撃任務で活躍したことは日中双方の印象に残り、緒戦における中国空軍の活動に大きな支障を与えた。日本側では後の二式水上戦闘機及び強風の開発に繋がった。
注釈
- ^ エドウィン・O・ライシャワーの実兄
- ^ 現実には、中国軍機より爆弾が落されてから爆発するところまでを確認した者はなく、先の爆弾架の被弾によるとする中国空軍の説明も、厳密には、爆弾を投下ではなく投棄したことへの説明である。実際に、日本艦出雲を狙ったものだけでなく、爆弾投棄によると思われる黄浦江での爆発も複数確認されている。また、競馬場への投棄という説も、フランス人警官が競馬場の方へ飛んでいく中国軍機を見て、競馬場に落とすかその先の黄浦江の出雲を再爆撃しようとしているものと思ったという証言に基づく。
- ^ この写真にはやらせや演出ではないかと疑う声もあるが、爆撃事件自体が実際に起こり、それが日本軍によって引き起こされたことについて否定する主張は現在までのところ聞かれない。
出典
- ^ ノース・チャイナ・デイリー・ニュース、1937年8月15日
- ^ a b c 菊池 2009, p. 169.
- ^ 朱 2015, p. 79.
- ^ 戦史叢書72 1974, p. 338.
- ^ a b c 戦史叢書72 1974, p. 340.
- ^ 戦史叢書72 1974, p. 311.
- ^ a b 戦史叢書72 1974, p. 354.
- ^ 新華軍事 淞滬会戦:奇襲日軍旗艦“出雲号”始末2010年08月22日
- ^ a b 中山 2007, p. 173.
- ^ 海軍航空隊、発進231-232頁
- ^ a b c 戦史叢書72 1974, p. 342.
- ^ ロンドン・タイムズ紙、1937年8月16日、"1,000 DEAD IN SHANGHAI/DEVASTATION BY CHINESE BOMBS"
- ^ a b c d e f g h i j k Christian Henriot. “August 1937: War and the death en masse of civilians | Christian Henriot - Academia.edu”. Academia.edu. 2022年6月12日閲覧。
- ^ 渡部昇一『渡部昇一の昭和史』ワック、2003年、274-275頁。ISBN 4898315135。
- ^ Frederic E. Wakeman (September 1996). Policing Shanghai, 1927-1937. University of California Press. p. 280-281. ISBN 0520207610 2011年10月20日閲覧。
- ^ 朝日新聞 昭和12年8月16日 第18444号2面
- ^ 朝日新聞社「写真が語る戦争」取材班『朝日新聞の秘蔵写真が語る戦争』朝日新聞出版、2009年4月、37-38頁。
- ^ 中山 2007, p. 176.
- ^ 中山 2007, p. 175.
- ^ 支那事変実記 第1輯(読売新聞社、1941年)
- ^ 中山 2007, p. 188.
- ^ 節日大搜尋-空軍節(国暦8月14日)
- ^ 戦史叢書72 1974, p. 345-346.
- ^ 戦史叢書72 1974, p. 355.
- ^ 戦史叢書72 1974, p. 346.
- ^ a b 戦史叢書72 1974, p. 346-347.
- ^ a b c 戦史叢書72 1974, p. 348.
- ^ 戦史叢書72 1974, p. 331.
- ^ 『東京朝日新聞』 1937年8月24日付朝刊 2面
- ^ 戦史叢書72 1974, p. 369-370.
- ^ 戦史叢書72 1974, p. 369.
- ^ 戦史叢書72 1974, p. 368.
- ^ 『東京朝日新聞』 1937年8月16日付号外 2面
- ^ 'French Protest and Warning', The Times August 16 1937, p.10
- ^ 朱 2015, p. 344.
- ^ 朱 2015, p. 145.
- ^ “丁紀徐将軍二三事” (中国語). 広州文史. 2017年1月13日閲覧。
- ^ 戦史叢書72 1974, p. 506.
- 中国空軍の上海爆撃 (1937年)のページへのリンク