ルドルフ2世 (神聖ローマ皇帝)
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ルドルフ2世 Rudolf II | |
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神聖ローマ皇帝 | |
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在位 | 1576年10月12日 - 1612年1月20日 |
戴冠式 | 1575年11月1日 |
別号 |
ハンガリー国王 ボヘミア国王 オーストリア大公 チロル伯 |
出生 |
1552年7月18日![]() ![]() |
死去 |
1612年1月20日![]() ![]() |
埋葬 |
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子女 | 一覧参照 |
家名 | ハプスブルク家 |
王朝 | ハプスブルク朝 |
父親 | マクシミリアン2世 |
母親 | マリア・フォン・シュパーニエン |
サイン |
|
生涯
1561年、父マクシミリアン2世がプロテスタント寄りの姿勢に終始したため、ハプスブルク家の同族であるスペイン国王・フェリペ2世が影響を危惧して、その意向によって幼少時をスペインの宮廷で過ごした(1563~1571)。イエズス会の影響を受けて厳格なカトリック教徒となった。
更に、フェリペ2世の宮廷では君主と家臣の区別を意図的に厳格にし、その間には目に見えぬ遮断壁が設けられていたが、ルドルフ2世はその雰囲気になじむ。[1]またスペイン仕込みの自尊心高く高圧的態度に父は驚いたが、スペイン出身の母は受容した。[2]
ルドルフ2世がいたスペイン宮廷は、丁度マドリードに首都が決まり(1561)、新たな宮殿の建設が進み(1564)、レパント沖の海戦(1571)までの時期である。
1576年に父の後を受けて神聖ローマ皇帝に即位する。父は宗教に対しては寛容策を採用することで皇帝権力の強化や国内の安定化を図っていたが、ルドルフ2世はスペイン宮殿での教育で敬虔なカトリックであったが、当初は父同様に寛容な態度で政治を執った。[2]
1577年、オランダにおいてレパント沖の海戦の出費によりフェリペ2世がオランダ軍に資金を十分に払えず反乱が起こったのを鎮めつつあったため、弟のマティアスをオランダに送る(その後の詳細は下記「弟マティアスとの関係」参照)。
1583年、祖父フェルディナンド1世が夏の宮殿を建てていた[3]プラハ城に本格的に首都を移す。この辺り(1578・1580・1581年)からメンタルヘルスが顕著に乱れ始める(1598年に悪化し、1606年辺りは躁鬱の波が酷くなる。遺伝性統合失調の一種とも)[4]
1593~1606年にかけてそれまで比較的平和だったオスマン帝国と戦争をする(Long Turkish war)。
この長いオスマン帝国との戦争が原因で国内情勢は一気に不安定化し、国内各地で反乱が勃発する。特にハンガリーは戦争における疲弊が強かったため反発は凄まじく(Bocskai uprising)、ルドルフ2世は穏健政策として1606年、同地域における信教の自由を認めた(Treaty of Vienna)。
しかしもともと政治能力に欠け、国政を重臣(メルヒオール・クレースルが主に)に任せきっていたルドルフ2世の政策は不徹底だったため、1608年にハンガリーで大規模な反乱が勃発した。ルドルフ2世は王位を放棄し、弟のマティアスにその王位を譲っている。翌1609年、ハンガリーのように反乱が起こることを恐れたルドルフ2世は、勅書でボヘミアにおける信仰の自由を認めたが、これもハンガリーと同様に政策が不徹底だったため、ルドルフ2世の死後、神聖ローマ帝国内において三十年戦争が勃発する一因を作り上げた。1611年にマティアスにボヘミア王を譲る(下記「弟マティアスとの関係」参照)。
1612年に59歳で死去し、他の君主位もマティアスが継いだ。
子女
生涯に一度も結婚しなかったが、漁色家として知られ、愛人カテリーナ・ストラドヴァとの間に6人(男女3人ずつ[5])の庶子を儲けた[6][7][8]。
- ユリウス・カエザル:精神疾患のため幽閉された[5]
- マティアス:グラーツのイエズス会のもとで育てられ、1619年没[5]
- カール:将校としてトルコ人との戦いに参加、1650年没[5]
- アナ・ドロテア:マドリードで修道女[5]
- エリーザベト:ウィーンで修道女[5]
- カロリーナ:結婚した唯一の娘[5]
- ^ 江村洋 (1990.8.20). ハプスブルク家. 講談社
- ^ a b 英語版
- ^ a b Prague Castle(英語版)
- ^ Rudolf II. (HRR)(ドイツ語版)
- ^ a b c d e f g Lenka Bobíková (2018年6月24日). “Nemocný syn Rudolfa II. brutálně vraždil”. Novinky.cz 2019年11月26日閲覧。
- ^ Lucie Žáková (2018年4月15日). “Krumlovské monstrum? Levoboček Rudolfa II. zohavil tělo své milenky”. eurozpravy 2019年11月26日閲覧。
- ^ Vratislav Konečný (2019年1月24日). “Na českokrumlovském zámku zemřel šílený vrah Julius Caesar, syn Rudolfa II.”. Novinky.cz 2019年11月26日閲覧。
- ^ Jana Fojtíková (2019年8月14日). “Syn Rudolfa II. vrahem. V císařské rodině se odehrálo děsivé drama”. ČtiDoma.cz 2019年11月26日閲覧。
- ^ 中野京子『名画の謎 中野京子と読み解く ギリシャ神話篇』文藝春秋、2011年、35頁。ISBN 978-4-16-373850-5。
- 1 ルドルフ2世 (神聖ローマ皇帝)とは
- 2 ルドルフ2世 (神聖ローマ皇帝)の概要
- 3 弟マティアスとの関係
- 4 参考文献
- ルドルフ2世 (神聖ローマ皇帝)のページへのリンク