モンゴル国 国名

モンゴル国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 08:30 UTC 版)

国名

正式名称は、モンゴル語キリル文字)表記で Монгол Улс(モンゴル・オルス)、ラテン文字転写は Mongol Uls

日本語の表記はモンゴル国。通称モンゴル。英語ではモンゴリアと呼ばれる。

モンゴル語名「モンゴル・オルス(Монгол Улс)」の「モンゴル」は民族名で、「オルス/ウルスУлс)」は「国」を意味する。

歴史

19世紀、外モンゴルから内モンゴルにかけては、清朝の支配下に置かれていた。

20世紀に入ると清朝は北方の自国領の人口密度を高くすることでロシア帝国側の侵略を防ぐ政策を実施し、それまでの辺境への漢人入植制限を廃止した。内モンゴルでは遊牧地が漢人により耕地に変えられ、モンゴル民族のうちに反漢・独立感情が高まり、反漢暴動が頻発した。中には貴族のトクトホモンゴル語版ロシア語版中国語版のように「馬賊」となり漢人襲撃を繰り返す者もいた。一方で知識人ハイシャン中国語版英語版らは漢人商人の活動に反発を覚え、いまだ危機感の薄かった外モンゴル地域と連携して独立を達成することを画策。外モンゴル貴族のツェレンチミドモンゴル語版中国語版英語版らと協力し外モンゴル諸侯に独立のための説得工作を行った。

1911年辛亥革命が起こると、既にハイシャンらの説得工作が功を奏し、独立のための財政援助をロシアに求めていたハルハ地方(外モンゴルの多くの地域)の王侯たちは清からの独立を宣言した(Mongolian Revolution of 1911)。モンゴルにおけるチベット仏教界で最高権威かつ民族全体のシンボルとして君臨していた化身ラマ(活仏)のジェプツンダンバ・ホトクト8世(ボグド・ハーン)をモンゴル国の君主(ハーン)として推戴し、ボグド・ハーン政権を樹立した。1913年には、チベットとの間で相互承認条約を締結した。統治機構は清朝の整備したものをほぼそのまま利用することで、スムーズな政府の設置ができた。ただ内モンゴルとの連携については、内モンゴル解放軍を派遣し、一時的には内モンゴルの大部分を制圧したが、モンゴルの後ろ盾として経済的・軍事的支援を行っていたロシア帝国が、辛亥革命で成立した中華民国(中国)への配慮から内モンゴルからの撤退を要求、撤収を余儀なくされた。

1915年キャフタ条約で中国の宗主権下での外モンゴル「自治」のみが、清の後を引き継いだ中華民国とロシアによって承認されるが、内モンゴルについてはこの地への進出をうかがっていた日本に配慮して現状維持とされた。また、内モンゴルでも外モンゴルの独立に呼応する動きが見られたが、内モンゴルの大部分の地域が漢人地域になっており中国が手放そうとしなかったこと、モンゴル人の間で統一行動が取れなかったことなどから内外モンゴルの合併には至らず、以後は別々の道を歩むことになる。

1917年ロシア革命が勃発すると、中国は外モンゴルでの勢力回復に乗り出し、1919年には外モンゴルを占領し自治を撤廃。1920年10月、赤軍との内戦で不利な状況に追い込まれていたロマン・ウンゲルン率いる白軍が体制の建て直しのためにモンゴルへと侵入して中国軍を駆逐、ボグド・ハーン政権を復興させた。しかし、ウンゲルンの残虐な行動に人心が離反、そんな中でボドーダンザンスフバートルチョイバルサン民族主義者社会主義者はモンゴル人民党(のちのモンゴル人民革命党)を結成、ソビエト連邦の援助を求めた。これに応じた赤軍や極東共和国軍はモンゴルに介入し、7月にジェプツンタンパ8世を君主としてモンゴル人民政府を樹立した(Mongolian Revolution of 1921)。こうして立憲君主制国家として新生モンゴルはスタートするも、1924年にジェプツンタンパ8世の死去を契機に人民共和国へと政体を変更、モンゴル人民共和国社会主義国)が成立した。なお、これら一連の動きや内モンゴルとの連帯において、リンチノ英語版ブリヤート・モンゴル人の活躍や理論的支えが大きく貢献していた。ブリヤート人の活動なしにはこの独立はありえなかったであろうが、モンゴル国では彼らを過小評価しがちである。[要出典]

モンゴル人民共和国は、ダンバドルジ政権(1924年 - 1928年)の下、狭量な社会主義政策にとらわれない開明的諸策を打ち出したが、コミンテルンの指導、ソ連からの圧力により、中ソ対立以後も徹底した親ソ・社会主義路線をとることになる(ソ連側は一時期、モンゴルを第16番目の共和国としてソ連に加えようとしていたとの説もある)。1929年 - 1932年には厳しい宗教弾圧と遊牧の強制農耕化、機械化、集団化など急進的な社会主義政策をとるが、各地で国民の約45パーセントが参加した暴動が発生し、多くのチベット仏教僧、富裕遊牧民が暴動の指導者として虐殺された。その後は急進的な政策はやや緩和され、教育や産業の充実が図られたものの、反革命の廉で粛清された国民はかなりの数に上った。

1934年にソ連と相互軍事援助協定が締結されるとともに、ソ連の指導者であったスターリンからラマ教寺院の破壊を繰り返し要求されるがゲンデン首相は拒否した[4]1936年にモンゴル秘密警察が設立され、ソ連派のチョイバルサンが首長となり、ゲンデンはソ連に送致され処刑された[4]。また、同1936年3月にはソ連との間でソ蒙相互援助議定書が締結された。1937年から800の修道院が破壊され、約1万7,000名の僧侶が処刑された[4]。同年、大規模なソ連軍が進駐すると、政府・軍部高官・財界首脳ら5万7,000人がゲンデン首相に関わるスパイに関与したとして逮捕され、2万人が処刑された[4]。チョイバルサンは当初バラーディンロシア語版らブリヤート知識人が唱えたモンゴル語ラテン文字化ではなく、キリル文字化を決める。これによって革命前は0.7パーセントだった識字率1960年代には文盲の絶滅を宣言するまでに上昇する。

第二次世界大戦末期(1945年)のソ連対日参戦では、モンゴル人民軍は内モンゴルの東部から西部まで進駐[5]し、その占領下では東モンゴル自治政府内モンゴル人民共和国など内外モンゴル統一運動も盛り上がるも、中華民国が独立承認の条件[6][7]とした外モンゴル独立公民投票とモンゴル人民軍の撤退をチョイバルサンは受け入れる。チョイバルサンは1952年に死去するまで独裁政治を行った。後継者であるツェデンバルは、西部の少数民族の出身ながら粛清による極端な人材不足に乗じて一気にトップに上りつめ、ツェデンバルはロシア人の夫人とともに数十年間にわたってモンゴル人民共和国を支配した。だが1984年に健康上の理由(認知症との説が有力)により書記長を事実上解任され、テクノクラート出身の実務派であるバトムンフが書記長に選ばれた。バトムンフは「モンゴルのゴルバチョフ」と呼ばれ、ソ連のペレストロイカに呼応した体制内改革を行った。

近代のモンゴルと外国との戦争は1939年に当時の満蒙国境で日本軍満州国軍とモンゴル人民軍・ソ連赤軍連合軍が軍事衝突したハルハ河戦争(ノモンハン事件)、ソ連対日参戦、1947年に新疆で当時の中華民国と武力衝突した北塔山事件モンゴル語版英語版中国語版のときのみで、それ以降はほとんど対外戦争は行っていない。国共内戦で中華民国を台湾に追いやって成立した中華人民共和国とは中ソ対立でモンゴルがソ連を支持したことによる政治的対立があった。中華民国は1946年1月に一旦、モンゴルの独立を認めたが、後ろ盾のソ連が国共内戦で中国共産党を支援したことを理由に承認を取り消した。そのため、台湾に逃れた中華民国は以降も長くモンゴルを自国領と主張することになった(中華民国の政治#対蒙関係参照)。1955年、モンゴルなど東側諸国5か国と、日本など西側諸国13か国の国際連合加盟が国連安保理で一括協議された。しかし、中華民国がモンゴルの加盟に、領有権を主張して拒否権を発動したため、ソ連は報復に日本の国連加盟に拒否権を発動した。モンゴルの国連加盟は、1961年まで持ち越しとなった(日本の国連加盟は1956年)。1966年ソ蒙友好協力相互援助条約が締結された。

1989年末、ソビエト連邦崩壊につながるソ連国内の動揺と東欧革命に触発されてモンゴルでも反官僚主義・民主化運動が起き、年明けの1990年春には、初めて日本を公式訪問したドゥマーギーン・ソドノム閣僚会議議長(首相)の決断により、一党独裁を放棄した。1992年にはモンゴル人民共和国からモンゴル国へと改称、新憲法を制定し、社会主義を完全に放棄した。

この民主化プロセスにおいては、国際援助機関の関与により急速な市場経済化が進められ、経済成長を重視するあまり富の公平な配分を怠り、社会福祉を削減することで貧富の差を拡大させた[8]資本主義化後21年を経過した現在では、貧富の差の拡大は国家的問題となっている。また社会主義時代から続いた官僚の汚職体質は民主化以後むしろ悪化しているとされる。

ツェデンバル時代に批判されていたチンギス・ハンについては、政府と国民が総力を挙げて復権に力を入れている。紙幣にまで使用されているほどである。また、カラコルム遺跡を除いて社会主義時代に積極的でなかったモンゴル帝国時代の遺跡の発掘や保存にも力を入れている。

政治

社会主義時代はモンゴル人民革命党の「指導的役割」が憲法で規定される一党独裁体制であり、議会制度もソビエト型の国家大会議を最高機関としていた。1990年の民主化後に自由選挙による複数政党制を導入し、1992年の新憲法公布後はともに直接選挙で選出される一院制の国家大会議と大統領が並立する二元主義的議院内閣制半大統領制)を採用した。国家大会議はその後4年ごとに総選挙を行ってきたが、その度に政権が交代するという経緯をたどっている。なお大統領は「国民の統合の象徴」とされ、国家大会議の可決した法案の拒否権や首相指名権などの実質的な政治権能を持つが、国家大会議に議席を持つ政党の被指名者しか立候補できず、また選挙のみによってただちに就任するのではなく、国家大会議が選挙で多数を確保した候補者を法律で認定する手続を経て就任する制約もあるため、大統領とより長い歴史を持つ国家大会議との関係は良好とは言えない。

政党


  1. ^ a b UNdata”. 国連. 2021年10月26日閲覧。
  2. ^ a b c d e World Economic Outlook Database” (英語). IMF. 2021年10月26日閲覧。
  3. ^ Mongolia”. Britannica. 2017年12月28日閲覧。
  4. ^ a b c d 第12回近現代史研究会報告 満ソ(蒙)国境紛争 中山隆志 陸自58(防2)『偕行』平成20年3月号
  5. ^ 二木博史等訳・田中克彦監修『モンゴル史』2、恒文社、1988年「日本帝国主義へのモンゴル人民共和国の参加(1945年)」〔地図11〕
  6. ^ 台湾外交部檔案『中蒙関係』12-16頁。中央研究院近代史図書館檔号112.1/1
  7. ^ 蒋介石日記』1945年10月12日
  8. ^ モリス・ロッサビ著 小長谷有紀監訳 小林志歩訳『現代モンゴル 迷走するグローバリゼーション』(明石書店 2007年7月31日初版第1刷)p.72
  9. ^ “モンゴル基礎データ”. 日本外務省. (2015年12月18日). オリジナルの2016年5月13日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160513015450/http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/mongolia/data.html 
  10. ^ “永世中立に関する政令が無効化”. モンゴルの声. (2020年7月2日). https://montsame.mn/jp/read/250965 2021年1月22日閲覧。 
  11. ^ 姫田小夏 (2011年11月29日). “モンゴルでますます高まる嫌中ムード 「やりたい放題」に資源を獲得し、土地の不法占拠も”. JBpress (日本ビジネスプレス). オリジナルの2020年12月2日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20201202194936/https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/30549 
  12. ^ 駐日モンゴル大使館 日本国民のモンゴル国の査証申請
  13. ^ 社会実情データ図録大相撲外国出身力士の人数
  14. ^ a b c d e “モンゴルの高専卒エンジニア、発祥の地・日本で奮闘中”. 朝日新聞. (2021年4月3日). オリジナルの2021年4月3日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210403064845/https://www.asahi.com/articles/ASP3Y569NP3MOIPE03B.html 
  15. ^ モンゴル国土の80%が砂漠化傾向 モンゴル・日本人材開発センター(2016年9月22日)2020年2月15日閲覧
  16. ^ World Economic Outlook Database, October 2014” (英語). IMF (2014年10月). 2014年10月12日閲覧。
  17. ^ アジア開発銀行の貧困人口統計 Archived 2015年3月18日, at the Wayback Machine.
  18. ^ 「取材20年、モンゴルのマンホール暮らしの少年たち」朝日新聞デジタル(2019年4月26日)2021年11月3日閲覧
  19. ^ Export Partners of Mongolia”. CIA World Factbook (2014年). 2016年3月1日閲覧。
  20. ^ Import Partners of Mongolia”. CIA World Factbook (2014年). 2016年3月1日閲覧。
  21. ^ 【NIKKEI Asia】莫大な鉱業収入の政治利用が常態化 モンゴルに迫る「資源の呪い」日本経済新聞』朝刊2021年10月24日グローバルアイ面
  22. ^ ARDEC
  23. ^ Agency, Japan Science and Technology. “相馬 拓也 (Takuya Soma) - モンゴル西部バヤン・ウルギー県サグサイ村における移動牧畜の現状と課題 - 論文 - researchmap” (日本語). researchmap.jp. 2021年10月17日閲覧。
  24. ^ Mongolia abandons Soviet past by restoring alphabet | World | The Times”. 2020年6月22日閲覧。





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