モニター (装甲艦) ハンプトン・ローズ海戦

モニター (装甲艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/23 08:56 UTC 版)

ハンプトン・ローズ海戦

1862年3月8日、ハンプトン・ローズで行われた合衆国海軍による海上封鎖部隊に対して連合国海軍装甲艦「バージニア」(CSS Virginia) は攻撃を行い、「カンバーランド」(USS Cumberland) および「コングレス」(USS Congress) を破壊し、「ミネソタ」(USS Minnesota) を座礁させた。その夜、「モニター」はジョン・L・ウォーデン中尉の指揮下にブルックリンから曳航されて到着した。翌3月9日、「バージニア」は「ミネソタ」および他の合衆国海軍艦艇へ攻撃を行うため戻り、「モニター」は「バージニア」を阻止するために出撃した。両装甲艦は約4時間の戦闘を行い、共に大きく損傷した。戦術的には戦闘は引き分けであったが、戦略的には「モニター」の勝利であった。「バージニア」の使命は海上封鎖の突破であったが、結局封鎖を破ることはできなかった。「モニター」の使命は合衆国艦隊を守ることであったが、その目的は達成された。「モニター」が艦長の目の負傷で退却した後「バージニア」は戦場を "支配" した。「バージニア」はその後もしばしばハンプトン・ローズで航行したが、モニターの再度の敗北を危惧する合衆国政府の意向もありモニターにはバージニアとの戦闘禁止令が出されたため[要出典]2隻の装甲艦が再び相まみえることはなかった。

モニター艦

「モニター」はモニター艦のプロトタイプとなり、その後多くの河川モニター、航洋モニターが建造された。それらの艦は南北戦争においてミシシッピ川やジェームズ・リバーでの戦闘で活躍した。何隻かの艦は2または3基の砲塔を装備し、後期に建造された艦は航行能力が改善された。

ハンプトン・ローズ海戦のちょうど3か月後に、スウェーデンへの設計が発注された。そして1865年に最初のスウェーデン製モニターがノーショーピングで建造された。その艦は設計者に敬意を表して「ジョン・エリクソン」と命名された。「ジョン・エリクソン」に続いて14隻のモニター艦が建造され、その内の一隻「セルヴ」は現在もヨーテボリのヨーテボリ海事博物館で保存されている。

アメリカ海軍における最後のモニター艦は1937年に除籍された。

難破

「モニター」の海難

「モニター」の設計は河川など平水での戦闘には適していたが、低い乾舷と重い砲塔は外洋での航行を困難にした。この特徴が第一艦の早い喪失に結びついたと考えられる。「モニター」は1862年12月31日外輪式運送船「ロードアイランド」による曳航中に高波におそわれノースカロライナ州ハッテラス岬沖で沈没し、62名の乗組員のうち16名が行方不明となった。

モニターの艦名の2代目は第二次世界大戦中の車両揚陸艦「モニター」(USS Monitor, LSV-5) に襲名された。揚陸艦の「モニター」は太平洋戦線で活動し、戦後解体された。




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