ムハンマド2世 (ナスル朝) ムハンマド2世 (ナスル朝)の概要

ムハンマド2世 (ナスル朝)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/28 10:13 UTC 版)

ムハンマド2世
أبو عبد الله محمد بن محمد
グラナダのスルターン[注 1]
在位 1273年1月22日 - 1302年4月8日

全名 アブー・アブドゥッラー・ムハンマド・ブン・ムハンマド
出生 1235年もしくは1236年
ヒジュラ暦633年)
死去 1302年4月8日
(ヒジュラ暦701年シャアバーン月8日)
子女 ムハンマド3世
ナスル
ファーティマ英語版
王朝 ナスル朝
父親 ムハンマド1世
母親 アーイシャ[2]
宗教 イスラーム教
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概要

父親のムハンマド1世の下でワズィール(宰相)を務め、指導者としての経験を積んだムハンマドは1273年1月に父親の死去を受けて君主の地位を継承した。その後カスティーリャ王アルフォンソ10世と条約の交渉を行い、カスティーリャは貢納と引き換えにナスル朝と対立していたアシュキールーラ家への支援を打ち切ることに同意した。しかし、カスティーリャは貢納金を受け取ったにもかかわらずアシュキールーラ家への支援を継続したために、ムハンマド2世はマリーン朝の君主のアブー・ユースフに支援を求めた。マリーン朝はカスティーリャに対し遠征軍を派遣して成功を収めたものの、マリーン朝がアシュキールーラ家をムハンマド2世と対等の存在として扱ったことでマリーン朝との関係は微妙なものとなった。1279年にムハンマド2世は外交工作を通してアシュキールーラ家の本拠地であったマラガの獲得に成功した。しかしながらナスル朝による一連の外交工作は各勢力からの反発を招く結果となり、ナスル朝は1280年にカスティーリャ、マリーン朝、そしてアシュキールーラ家の三者による同時攻撃に直面することになった。

しかし、アルフォンソ10世と息子のサンチョ(後のサンチョ4世)の間で内紛が発生し、北アフリカ出身者を採用した軍事組織であるアル=グザート・アル=ムジャーヒディーン英語版の助力も得たことで危機を回避した。そしてアルフォンソ10世が1284年に死去し、アブー・ユースフも1286年に世を去ったとこで両国からの脅威は収まり、アブー・ユースフの後継者のアブー・ヤアクーブは国内問題の対応に集中した。1288年にはアシュキールーラ家がアブー・ヤアクーブの招きに応じて北アフリカへ向かったことでナスル朝は国内における最大の懸念を取り除いた。1292年にムハンマド2世は攻略後に都市がナスル朝に引き渡されるという条件の下でマリーン朝の統治下にあったタリファに対するカスティーリャの軍事作戦に協力したが、サンチョ4世はタリファの攻略に成功した後も約束を守らずに都市を引き渡さなかった。これを受けてムハンマド2世は再びマリーン朝と協力したものの、1294年のナスル朝とマリーン朝によるタリファ奪還の試みは失敗に終わった。カスティーリャではサンチョ4世が1295年に死去し、幼少のフェルナンド4世が後を継いだ。ナスル朝は王位継承に絡んだカスティーリャの混乱を利用し、カスティーリャに対する軍事行動を起こしてケサーダ英語版アルカウデテ英語版を奪うことに成功した。さらにムハンマド2世はアラゴン王国と共同でカスティーリャへの攻撃を計画したものの、作戦の実行を前にして1302年4月に死去した。

ムハンマド2世は30年近くに及んだ治世の間に父親によって建国された国家の基盤を固め、行政と軍事面の改革を実行した。自身の治世中に王室儀典や宮廷書記官などの制度を整備するとともに、北アフリカ出身者を採用した軍隊であるアル=グザート・アル=ムジャーヒディーンを組織し、さらに統治体制におけるワズィールの官職の重要性を高めた。また、国境地帯の戦略的に重要な場所に一連の防衛施設の建設を指示した。これはその後の数世紀にわたってナスル朝の国境防衛の基盤を形成した。そしてアルハンブラ宮殿の複合施設を拡張し、対外的にはジェノヴァピサから来航する貿易業者との交易を拡大させた。ムハンマド2世の通り名となっているアル=ファキーフは、自身の高い教養と学者や詩人とともに過ごす環境に対するムハンマド2世の嗜好を反映している。

初期の経歴

ムハンマド2世として知られるアブー・アブドゥッラー・ムハンマド・ブン・ムハンマドは[3]ヒジュラ暦633年(西暦1235年/1236年)に当時イベリア半島アル=アンダルスの一部であったアルホーナ英語版の町を出自とするナスル氏族の下に生まれた[4]。後の時代の歴史家でナスル朝のワズィール(宰相)を務めたイブン・アル=ハティーブによれば、一族(バヌー・ナスルまたはバヌー・アル=アフマールとしても知られる)はイスラームの預言者ムハンマドサハーバ(教友)であったハズラジュ族英語版出身のサアド・ブン・ウバーダ英語版の子孫である。サアドの子孫たちはイベリア半島へ移住し、農民としてアルホーナに定住した[5]。ムハンマドには少なくともファラジュ(ヒジュラ暦628年、西暦1230年/1231年生)とユースフという名の二人の兄と[6]、ムウミナとシャムスという名の二人の姉妹がいた[7]。1232年に父親のムハンマド1世がアルホーナで自立し、1244年にアルホーナを失った後はグラナダを中心にイベリア半島南部でかなりの規模を持つ国家に成長した[8]ナスル朝の名で知られるこの国家はイベリア半島における最後の独立したイスラーム政権となった[8]。ファラジュの死後の1257年にムハンマド1世は息子のユースフとムハンマドを新たな後継者として宣言した[9]。同じ年の8月にはムハンマドに長男のムハンマド(後のムハンマド3世)が生まれ[10]、さらに後にはもう一人の息子のナスルと娘のファーティマ英語版も生まれた[11]。ファーティマは後に父親の従兄弟にあたるアブー・サイード・ファラジュ英語版と結婚し、その子孫は1314年にナスルが失脚した後に男系の直系子孫に代わってナスル朝の支配者の家系となった[11]。ムハンマドは後継者として戦争や外交を含む国家の諸問題に関与し[12]、父親の治世中のある時期にワズィールを務めた[13]。そして父親の存命中に子孫を残さなかったユースフの死後に唯一の後継者となった[2]。1273年に父親が死去した時点で38歳となっていたムハンマドは、すでに経験豊富な優れた指導者となっていた[12]


注釈

  1. ^ ナスル朝の君主号は「スルターン」の称号に加えて、「王」や「アミール」の称号も公文書や歴史家によって使用されている[1]
  2. ^ イブン・アル=ハティーブは、後継者が差し出した毒入りの砂糖菓子によって(ムハンマド2世が)毒殺されたという噂が広まったと伝えている[66]

出典

  1. ^ Rubiera Mata 2008, p. 293.
  2. ^ a b Boloix Gallardo 2017, p. 165.
  3. ^ a b c Vidal Castro: Muhammad II.
  4. ^ Boloix Gallardo 2017, p. 164.
  5. ^ Harvey 1992, pp. 28–29.
  6. ^ Boloix Gallardo 2017, p. 38.
  7. ^ Boloix Gallardo 2017, p. 39.
  8. ^ a b Harvey 1992, pp. 39–40.
  9. ^ Harvey 1992, p. 33.
  10. ^ Boloix Gallardo 2017, p. 166.
  11. ^ a b Fernández-Puertas 1997, pp. 2–3.
  12. ^ a b Kennedy 2014, p. 279.
  13. ^ Arié 1973, p. 206.
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