ムハンマド・イブン・アブドゥル=ワッハーブ ムハンマド・イブン・アブドゥル=ワッハーブの概要

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ムハンマド・イブン・アブドゥル=ワッハーブ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/22 17:30 UTC 版)

第一次サウード王国(1744年 – 1818年)

イブン・アブドゥル=ワッハーブはムハンマド・イブン・サウード英語版と同盟を結び、その助けを得てディルイーヤ首長国(第一次サウード王国)を樹立した[2]。彼らは同盟して権力を独占した上で二人で分け合い、二人の一族による支配はこんにちのサウジアラビア王国まで続いている[3]。サウジアラビアにおける「アール・アッ=シャイフ英語版」と呼ばれる宗教的権威のある一族がイブン・アブドゥル=ワッハーブの子孫であり、同国の聖職者階級養成機関を支配して[4]ウラマーを統率している[5]

イブン・アブドゥル=ワッハーブの起こした運動はこんにちでは「ワッハービズム」として(訳注:英語圏では)よく知られるが、この言葉が敵対者により造語された軽蔑的な用語とみなす信者は多く、彼らはサラフィー運動と呼ばれることを好む[6][7][8][9]。学術的には「サラフィーイズム」は全世界のさまざまなところで行われているイスラームの純化運動の一部を形容するのにふさわしい用語で、 「ワッハービズム」はサウーディー派の運動に限定して捉える場合に用いる用語である。また、「ワッハービズム」は厳格な「サラフィーイズム」として捉えられている。ベイルートのアメリカン大学の研究者アフマド・ムーサッリーによると「すべてのワッハービーがサラフィー主義者だが、すべてのサラフィー主義者がワッハービーであるとは限らないという法則がある」という[10]。そのほかにも、ワッハービズムとサラフィーイズムはもともと別個のものであったが、1970年代に実質的に見分けがつかないものとなったとする論者もいる[11][12]。20世紀アルバニアのウラマー、ナースィルッディーン・アールバーニー英語版はイブン・アブドゥル=ワッハーブの運動を「ナジュディー・ダアワ」と呼んでいる[注釈 1][13]

前半生

イブン・アブドゥル=ワッハーブは、一般的に受け入れられている説によると[注釈 2]、1703年に[14]、アラビア半島中央部、ナジュドアル=ウヤイナ英語版村に生まれた[14][15]。出身部族はアラブの諸部族英語版の中でもオアシスに定住する部族の一つバヌー・タミーム英語版とされる[16]

イブン・アブドゥル=ワッハーブの一家はイスラーム法学者の一家で、代々ハンバル学派を奉じていた[17]。イブン・アブドゥル=ワッハーブも幼いころから、主に父親のアブドゥル=ワッハーブにイスラーム諸学を学んだ[18][19]。長じてマッカマディーナ巡礼を行い、そこに何年か留まって、ウラマーに師事したと言われている[20][21]。イブン・アブドゥル=ワッハーブの生涯に関する「公式」史料でさえも、これら二都市を訪れた時期や順番には異同がある。また、巡礼の旅の全体の長さについても歴史研究者の間で意見が分かれている。イブン・アブドゥル=ワッハーブが1740年にアル=ウヤイナに帰宅するまでの彼の人生は、多くの出来事についてその日時がわからなくなってしまっており、再構築が難しい。巡礼後はバスラ(現イラク南部)にも遊学したという説もある[18][22]

マディーナにおいて、イブン・アブドゥル=ワッハーブは最初、アブダッラーフ・イブン・イブラーヒーム・イブヌル=サイフ(Abdallah ibn Ibrahim ibn Sayf)師の下について学んだが、師は自分より年下のムハンマド・ハヤー・アッ=スィンディー英語版にイブン・アブドゥル=ワッハーブを紹介し、彼にこの者を弟子にしないかと勧めた[23]。イブン・アブドゥル=ワッハーブとアッ=スィンディーは非常に親しく交わり、イブン・アブドゥル=ワッハーブはアッ=スィンディーの宅に長い間逗留した[23]。アッ=スィンディーはイブン・アブドゥル=ワッハーブに対して、問題を解決するときにその問題にまつわる情報だけに基づいて独自に精神的努力を払い、結論を導き出すこと(イジュティハード)、ワリー英語版を崇めたり聖者廟に詣でたりするのは世人がみなやっていても拒否することを教えたとされている[23]

初期の宗教活動

イブン・アブドゥル=ワッハーブは故郷の村に戻ると布教をはじめた。彼の説法に惹きつけられた信者の中にはアル=ウヤイナの有力者、ウスマン・イブン・ムゥアンマルもいた。彼には、自らの支配地域を「ナジュド全域に広げ、神が望みたもうならば、さらに」という政治的野望があった。イブン・アブドゥル=ワッハーブとイブン・ムゥアンマルは、お互いの布教と政治的野望という目的を達成するために協力し合うことにした。イブン・アブドゥル=ワッハーブは宗教改革に向けたいくつかの考えを実行に移し始め、まず最初に、地元民の信仰を集めていた預言者の教友ザイド・イブヌル=ハッターブ英語版の霊廟を打ち壊すことにした。彼は、イスラームの教えは霊廟崇拝を禁じていると唱え、イブン・ムゥアンマルに力を貸すように説得した。次に、地元民に神聖視されていた木々を切り倒すようにイブン・ムゥアンマルに命令し、「すべての木々の中で最も栄えあるもの」を自らの手で切り倒した。イブン・アブドゥル=ワッハーブは、密通を犯したと告白した女性に対して石打刑を執行することを導入したことでも知られる[24][25]

アル=ウヤイナ村でのこれらの動きは、ナジュドに隠然たる影響力を保持していたアル=アフサーゥアル=カティーフのアミール、バヌー・ハーリドアラビア語版部族のスライマーン・イブン・ムハンマド・イブン・グライルの注意を引いた。イブン・グライルはイブン・ムゥアンマルに対して、もしおまえがイブン・アブドゥル=ワッハーブを殺すか追放するかしなければ、おまえがアル=アフサーゥに所有している地所の徴税権は失うことになるぞと脅した。イブン・ムゥアンマルは脅しに屈し、イブン・アブドゥル=ワッハーブにアル=ウヤイナから立ち去らせた[25][26]

ムハンマド・イブン・サウードとの協定

アル=ウヤイナから追放されたイブン・アブドゥル=ワッハーブは、近隣のアッ=ディルイーヤの有力者、ムハンマド・イブン・サウード英語版により、アッ=ディルイーヤに住むよう、招かれた。同地にしばらく滞在して、イブン・アブドゥル=ワッハーブは彼と同盟を組むことを決めた。権力者と組むのは二回目になるが今度はうまく行った[27]。二人はアラビア半島の各アラブ部族を自分たちが想定するところのイスラームの「真正の」教えに立ち返らせようという点でお互いに合意した。ある史料によると二人が始めて相まみえたとき、イブン・サウードは次のように宣言したという。

このオアシスはあなたのものです、敵を怖がりなさいますな。たとえ全ナジュドにあなたを追い出せと、号令がかけられたとしても、神の御名にかけて、私たちは決してあなたの追放には与しませんぞ。

マダーウィー・アッ=ラシード英語版A History of Saudi Arabia: 16より)

ムハンマド・イブン・アブドゥル=ワッハーブはこれに答えて曰く、

オアシスの長にして賢明なるあなたに、一つお願いがあります。あなたがカーフィルどもへのジハード(訳注:ここではイスラーム弘宣のための拡大ジハード)を実行に移すという誓いを、ここでわたしに立ててください。そうすればあなたはきっと、ウンマのイマームになるでしょう。わたしは神の教えに関わる問題に関してのイマームとなりましょう。

—マダーウィー・アッ=ラシード(A History of Saudi Arabia: 16より)

と述べた。合意はお互いに忠誠の誓い(バイア英語版)を交わすことで確認された[28]。イブン・アブドゥル=ワッハーブは宗教問題に関して責任を負うこととし、イブン・サウードは政治・軍事的問題の担当者になることになった[27]。この歴史的合意は「相互支援協定("mutual support pact")」になり[29][30]アール・サウードの一族と、アール・アッ=シャイフ英語版及びイブン・アブドゥル=ワッハーブの弟子たちとの間の「権力分配に関する取り決め」にもなった[31]。この合意は300年近く経った今でも続いており[32]、サウード家の勢力拡大を促進させるイデオロギーとなった[33]

サウード家は、明確に定義された宗教上のミッション・大義名分が与えられたことで勢いづいた[4]。サウード家の軍勢はナジュドを征服し、現代のサウジアラビア王国の国土全域とおおむね同じ範囲にまでサラフィー運動を及ぼした[4]。そして当時民衆に受け入れられていたさまざまな信仰を多神教(シルク)に等しいとして根絶やしにする一方、イブン・アブドゥル=ワッハーブの教条を広めた[4][34]。こうして、1744年の二人の協定はディルイーヤ首長国(第一次サウード王国)の出現というかたちで実を結んだ[4]

アール・アッ=シャイフ

イブン・アブドゥル=ワッハーブは、バグダードにいたころ、一人の裕福な女性と結婚したという伝承がある[誰?]。彼女が亡くなったとき、イブン・アブドゥル=ワッハーブは土地と財産を受け継いだという[35]。しかしながら、この「裕福な女性」との結婚及びバグダードへの旅行をしたという説は、サラフィー派のウラマーから異議が申し立てられている。サラフィー派によると彼の婚姻は彼がまだティーンエイジャーのころに父アブドゥル=ワッハーブにより縁組されたものであって、彼はバスラを越えて遠くへ旅したことはないという[36]

ムハンマド・イブン・アブドゥル=ワッハーブには6人の息子がいた。フサイン、アブドゥッラーフ、ハサン、アリー、イブラーヒームの5人に加え、夭折したアブドゥルアズィーズの6人である。成人した息子たちは皆、家のすぐ近くにマドラサを建て、ディルイーヤやその他の場所からやってくる若い弟子たちを教育した[37]。イブン・アブドゥル=ワッハーブの子孫たちは「アール・アッ=シャイフ英語版」と呼ばれ、サウード家が治める国(アッ=ダウラッ=サウーディー)[注釈 3]において歴史的に、国家公認の宗教者養成施設を支配して[4]ウラマーの指導層を形成した[5]

現代サウジアラビアにおいて、アール・アッ=シャイフに属する人々は「アール・サウード」と呼ばれるサウード王家と同等の威信を保持している。両者は権力を分け合い、ウラマーや政府の官僚などの地位についている[38]。両家の協定は、アール・サウードが信仰に関わる分野においてアール・アッ=シャイフの権威を維持し、サラフィー主義の原則を掲げ、これを弘宣することに基礎を置く[39]。アール・アッ=シャイフはその見返りとして、アール・サウードの政治的権威を支持する[40]。サウジアラビアではこのように宗教的道徳的権威英語版が、王族支配の正当化に役立てられている[41]




注釈

  1. ^ Najdi da'wah, 「ナジュドに作った政礼一致の国」ぐらいの意味。
  2. ^ これらの詳細についてコンセンサスが得られているものもあるが、特にイブン・アブドゥル=ワッハーブの生年月日と出生地の詳細について、異なる意見を述べる者もいる。彼がバヌー・タミームの生まれであると認めることは、彼が正しくイブン・タイミーヤの教えを受け継ぐ者であるという一部のウラマーの考えに沿ったものとなる。
  3. ^ ダウラ(دولة)の詳細についてはアミールの項を参照されたい。

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「ムハンマド・イブン・アブドゥル=ワッハーブ」の続きの解説一覧

ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブ

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ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブアラビア語: محمد بن عبد الوهاب‎, ラテン文字転写: Muhammad ibn ʿAbd al-Wahhab; 西暦1703年/ヒジュラ暦1115年 – 1792年6月22日)はスンナ派ムスリムの宗教家[1]ウラマーアラビア半島中央部のナジュド出身[1]クルアーンと預言者のスンナだけに基づき、タウヒードを強調する厳格な復古主義的思想を説いた[1]。信仰の本来の教えに立ち返ることによってイスラームを「浄化する」ことを訴えた。ここで言うイスラーム本来の教えとは、預言者ムハンマドが直接伝道した人々から数えて3世代までの「サラフ」(先祖の意)により理解されていた教えを指す[2]。また、宗教的なこしらえ物(ビドア)、あるいは多神教(シルク)とみなしたものは、それがたとえ普通のムスリムの生活に根付いた習慣であっても拒絶すべきものとされた[3]


注釈

  1. ^ これらの詳細についてコンセンサスが得られているものもあるが、特にイブン・アブドゥルワッハーブの生年月日と出生地の詳細について、異なる意見を述べる者もいる。彼がバヌー・タミームの生まれであると認めることは、彼が正しくイブン・タイミーヤの教えを受け継ぐ者であるという一部のウラマーの考えに沿ったものとなる。
  2. ^ ダウラ(دولة)の詳細についてはアミールの項を参照されたい。

出典

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  64. ^ Navalk Post Graduate School Thesis, September 2009, Michael R. Dillon: Wahhabism: Is it a factor in the spread of global terrorism?, pp 3-4 Linked 2015-03-03
  65. ^ On Salafi Islam”. Muslim Matters. 2015年3月1日閲覧。


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