マナート・L・エベールとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > マナート・L・エベールの意味・解説 

マナート・L・エベール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/24 16:01 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
マナート・リンカーン・エベール
Mannert Lincoln Abele
生誕 1903年7月11日
マサチューセッツ州 クインシー
死没 (1942-07-30) 1942年7月30日(39歳没)
太平洋、キスカ島近郊
所属組織 アメリカ海軍
軍歴 1920 - 1942
最終階級 海軍少佐
テンプレートを表示

マナート・リンカーン・エベール(Mannert Lincoln Abele, 1903年7月11日 - 1942年7月30日)は、第二次世界大戦時のアメリカ海軍軍人。最終階級は少佐

1920年8月海軍に入り、1922年6月に少尉候補生となる。1926年6月3日、アナポリスを卒業して少尉に任官し、1929年からコネチカット州ニューロンドンの海軍潜水艦基地で潜水艦乗組員として訓練を受けた。この間結婚し、後にグラニオンの捜索を行うことになる三人の息子をもうけている。

アメリカ合衆国第二次世界大戦に突入すると、1942年4月11日ガトー級潜水艦グラニオン(USS Grunion, SS-216)の艦長に任命され、戦死する7月30日まで勤めた。

エベール指揮するグラニオンは1942年7月、最初の哨戒任務をアリューシャン列島西方で行い、同月中旬二隻の300トン級警備艇を撃沈。三隻目にも大きな損害を与えるなど着々と戦果をあげたが、下旬にダッチハーバーへの帰還命令を受け帰還途上の30日キスカ島沖で日本汽船鹿野丸を雷撃、航行不能に追い込むが止めの一撃を与えるべく浮上中に反撃を受け撃沈される。この際エベールは他の乗員とともに行方不明となった。以後発見されることはなく、この攻撃で戦死したものと思われる。エベールは行方不明のまま戦死の扱いとなり海軍殊勲章を受章。同時に戦死した乗員70名は全員がパープルハート章を受賞した。彼の栄誉をたたえ、アレン・M・サムナー級駆逐艦30番艦がその名を命名された。同艦は沖縄戦で桜花によって戦没している。

息子3人の捜索により2006年にグラニオンの戦没が確認され、これによってエベールの戦死も確定した。

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「マナート・L・エベール」の関連用語

マナート・L・エベールのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



マナート・L・エベールのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのマナート・L・エベール (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS