ベルナールト・ファン・オルレイ 絵画

ベルナールト・ファン・オルレイ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 10:24 UTC 版)

絵画

ベルナールトのサインが入った最初期の絵画のひとつで、1512年に作成された『Triptych of the Carpenters and Masons Corporation of Brussels』というタイトルの三連祭壇画がある。『使徒の祭壇』とも呼ばれており、現在は中央パネルがウィーンの美術史美術館に、両翼パネルがベルギー王立美術館にそれぞれ所蔵されている。トマスとマタイという二人の使徒の生涯を題材とした作品で、もともとはブリュッセルのノートルダム・デュ・サブロン教会 (fr:Église Notre-Dame du Sablon de Bruxelles) の依頼で描かれたものだった。

『カール5世の肖像』

初期のベルナールトの作品は、ヤン・ファン・エイクロヒール・ファン・デル・ウェイデンなど、初期フランドル派の巨匠たちと同じ系統のものだった。しかし徐々にイタリア・ルネサンスの作風を自身の絵画に取り込み始め、ラファエロの作品に見られるような人物描写や空間表現を描きだすようになった。

1515年にベルナールトはフールネの聖ヴァルプルギス教会聖十字会から三連祭壇画の制作依頼を受け、1522年に完成させている。現在左翼パネルがベルギー王立美術館に所蔵されており、聖ヘレナと教皇がイタリア風の飾り付けがされたルネサンス様式の建物の中で会話をしているという作品となっている。背面はグリザイユで、キリストの十字架降下が描かれている。右翼パネルはイタリア、トリノのサバウダ美術館に展示されており、シャルルマーニュ大帝が、キリスト受難の聖遺物を拝領している場面が描かれている。

1515年以降、ベルナールトとその工房は王族や宮廷人たちから数多くの肖像画の依頼を受けるようになった。1516年には後に神聖ローマ皇帝となる、スペイン王位に就いたばかりのカール5世の肖像画を7枚描いている。他にもカール5世の弟で、後にハンガリー王、神聖ローマ皇帝になるフェルディナントや後にヨーロッパの各王家に嫁ぐことになる4人の妹たちの肖像画も数枚手掛けている。

1516年にはトリノ聖骸布の模写を行っているが、この作品はアルブレヒト・デューラーの作品ではないかともいわれることが多い[2]

1517年までにベルナールトは芸術家ギルド聖ルカ組合のマスターの資格を手に入れている。

『マルグリット・ドートリッシュの肖像』

1518年5月23日にヤーコポ・ダバルバーリの後任として、ネーデルラント総督マルグリット・ドートリッシュの公式宮廷芸術家に抜擢された[3]。この地位に就いたことにより、ベルナールトは当時の主要な芸術工房を代表する存在となり、北ヨーロッパで最初に大規模な工房を経営することになる芸術家のひとりとなった。ベルナールトはこの工房で絵画制作にいそしみ、1525年以降にはタペストリーの下絵やステンドグラスデザインの第一人者にもなった。1527年まで宮廷芸術家の地位にあったが、ベルナールトとその家族、弟子たちが宗教改革で衝突していたプロテスタントに同情的だったために、その地位を追われることになる。ファン・オルレイ一家はブリュッセルを逃れ、アントウェルペンに移住したが、5年後新任のネーデルラント総督マリア・フォン・エスターライヒの求めに応じて宮廷芸術家に復帰しブリュッセルに戻った。ベルナールトは1541年に死去したが、宮廷画家の地位は弟子であるミヒール・コクシー (Michiel Coxie) に引継がれた。

ベルナールトの絵画でもっとも重要視されている作品は、ベルギー王立美術館所蔵の『忍耐の美徳の三連祭壇画』である。これは『ヨブの祭壇画』ともいわれ、マルグリット・ドートリッシュが自身で書いた詩を絵画化するよう、1521年にベルナールトに依頼した作品となっている。内側のパネルにはヨブの苦難が描かれ、外側のパネルには通常グリザイユで聖人が描かれるところを、ルカ伝の「金持ちとラザロ」の寓話が描かれている。この三連祭壇画は工房作ではなく、ベルナールト自身の手によって描きあげられた。この作品を含め、ベルナールトは「ELX SYNE TYT」というサインを入れた作品に対しては特別に自信を持っており、このことは芸術家は完ぺきな総合芸術家でなければならないという、当時のベルナールトの考えからきている。 と

『アネトンの三連祭壇画』

ベルギー王立美術館にはベルナールトの手による『アネトンの三連祭壇画』と呼ばれるもう一つの三連祭壇画がある。この祭壇画はカール5世の私的顧問団の第一秘書フィリペ・アネトンの依頼によって描かれた。中央パネルには古典的な金一色の背景に哀切なピエタが描かれており、初期フランドル派やデューラーの影響を受けたとみられる私的感情にあふれた作風となっている。左翼パネルにはアネトンと息子が、右翼パネルには妻と娘がそれぞれ描かれている。ベルナールトはフランドルの画家ヤン・ホッサールトと並んで、力強い筋肉表現を最初にフランドル派絵画にもたらした芸術家でもあった。 アントワープ王立美術館が所蔵する『最後の審判』はアントウェルペンのノートルダム大聖堂の依頼で1525年に描かれた三連祭壇画で、そのオリジナリティと見事な絵画技量からベルナールトの最高傑作のひとつといわれている。背面のグリザイユは、当時ベルナールトの工房で修業していたフランドルの画家ペドロ・カンパーニャ (Pedro Campaña) が仕上げた。

ブルッヘのノートルダム教会が所蔵する『キリスト磔刑の祭壇画』は1534年の作品で、もともとはマルグリット・ドートリッシュからの依頼でブルゴーニュ公国ブール=カン=ブレスのブロウ教会での葬礼のために描かれた。両翼パネルは後年にマルクス・ヘラルトが完成させており、その後スペイン王フェリペ2世のもとでネーデルラント総督を務めたマルゲリータ・ダウストリアがブルッヘに持ち込んだ。中央パネルにはキリストの磔刑、左翼パネルにはイバラの冠をかぶせられて鞭打たれるキリストと、十字架を運ばされるキリストが、右翼パネルにはピエタとユストの辺獄がそれぞれ描かれている。

祭壇画に描かれた宗教絵画とは異なり、ベルナールトが描いた肖像画は控えめで落ち着いた作品となっている。カール5世、マルグリット・ドートリッシュの肖像画などがその例として挙げられる。モデルが静かに座っている肖像画が多く、モデルの内面描写や感情描写がほとんどされていない無表情な作品が多い。ベルナールトの工房はこれらの肖像画のコピーも作成しており、とくにカール5世の肖像画は多くコピーされていた。コピーされた肖像画は王宮を訪れた貴顕や、諸国への贈り物として使われた。

『洗礼者ヨハネと聖母子』(プラド美術館)

プラド美術館所蔵の、屋外に開けた柱を持つ東屋と木々を背景にした『洗礼者ヨハネと聖母子』のように聖人を等身大に描いた作品も多い。この画面構成は16世紀絵画にはよく見られるものだった。

ベルナールトは自身の作品にサインすることもあり、とくに1521年以前の初期の作品に多くみられる。ベルナールトのサインは、ギュールズと二枚のアージェントからなるド・オルレイ家の紋章だった。この紋章(サイン)はベルナールトではなく、父ヴァレンティンのものではないかという論争が過去に起こったことがある[4]

1520年にカール5世の神聖ローマ皇帝戴冠式のためにデューラーがネーデルラントを訪れたときに、ベルナールトのことを「ネーデルラントのラファエロ」と持ち上げたことがあった。デューラーは8月27日から9月2日までベルナールト家の客人となり、ベルナールトの肖像画も描いている[5]

ベルナールトの弟子で重要な芸術家として、ミヒール・コクシー、ピーテル・ファン・アールスト、ペドロ・カンパーニャが挙げられ、彼らはローマ派の作風を確立していく。その他の弟子ではランスロット・ブロンデール、ファン・フェルメイエンが著名で、彼らはフランドル派の伝統的な画家、デザイナーとして活動していった。

ベルナールトはヤン・ホッサールト、クエンティン・マセイスと並び、16世紀フランドル絵画にイタリア・ルネサンスの作風、様式を導入した重要な芸術家だと見なされている。ベルナールトの絵画は細部まで詳細に表現された、非常に色彩豊かなものとなっている。


  1. ^ Hartveld S. - Valentin van Orley - The Burlington Magazine for Connoisseurs, Vol. 69, No. 405 (Dec., 1936), pp. 263-265+268-269
  2. ^ 1516 copy of the Shroud of Turin Archived 2007年1月26日, at the Wayback Machine.
  3. ^ Pearson, Adrea G. (Autumn 2001). “Margaret of Austria's Devotional Portrait Diptychs”. Woman's Art Journal 22 (2): 2+19–25. 
  4. ^ S. Hartveld (December 1936). “Valentin van Orley”. The Burlington Magazine for Connoisseurs 69 (405): 263–265+268–269. 
  5. ^ Studies in Western Tapestry
  6. ^ Vandenbroeck, Paul; Miguel Angel Zalama (2007). "Filips de Schone, De schoonheid en de waanzin". Burgos: Fundacion Carlos Amberes. pp. 27–28  (in Dutch)
  7. ^ Michael C. Plomp (Fall 2003). “Pilate Washing His Hands”. Metropolitan Museum of Art Bulletin LXII (2). 
  8. ^ Het edele vermaak. De jacht in de Spaanse Nederlanden onder de Aartshertogen. (Philippe Liesenborghs) (in Dutch)
  9. ^ Lecocq, Isabelle; Todor T. Petev (2004). “Le relevé d'un vitrail offert par Marguerite d'Autriche à l'église Saint-Rombaut de Malines et attribué à Bernard van Orley”. Revue belge d'archéologie et d'histoire de l'art 73: 39–61.  (abstract online : [1] (in French)






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