プリンス・セダン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/30 00:08 UTC 版)
逸話
コラムシフトのシャフト折れ多発と対策
1952年(昭和27年)10月、後にスカイラインの開発責任者となる桜井眞一郎がたま自動車に入社した際、最初に上司である日村卓也設計課長代理から命じられた仕事は、折れる不具合が多発していたプリンス・セダンのコラムシフトのシャフトの設計変更であった。
日村は「折れる原因は強度不足にあるので、シャフトを太くすればいい」と主張するが、新人の桜井は「細くしてしなりを持たせればいい」と主張し、両者は譲らなかった。上下関係が現在よりも厳格であった当時においては、課長代理と新人では当然後者が引き下がるべきところではあったが、桜井は自らの分析によって導き出した結論に自信を持っていたので、もし自分が間違っていたのならクビになってもいい、と開き直ることにし、細い対策品を作って試したところ、シャフト折れの不具合は止んだ。
これにより、元々桜井を「将来モノになるだろう」と踏んでいた日村は、ますます桜井を認めるようになったという[6]。
桜井は生前、プリンス時代の最も尊敬する上司として、中川良一と日村の2名を挙げていた[5]。
タクシーの板ばねのゴム製ブッシュ破損多発と対策
1952年(昭和27年)11月、日本交通が大量のプリンス・セダンを採用した[7]が、サスペンションのばねのゴム製ブッシュ(たま/プリンスの会長の石橋正二郎が社主であったブリヂストン製)が破れるという不具合が多発した。入社後、日村からサスペンション担当を命じられていた桜井は、毎日のように市谷の日本交通のタクシーの溜まり場に行き、タクシーの運転手らに叱られながら部品交換を行っていた。
桜井は効率良くブッシュを抜く工具まで自作して対応したが、根本的な対策をするために自らゴムの勉強を開始した。三重県四日市市の東海護謨工業(後の東海ゴム工業、現在の住友理工)に毎月1回夜行列車で通い、同社の小林雄二という人物に話を持ちかけて2年間2人とも無報酬で研究した結果、破れないラバーブッシュを完成させ、自動車の防振技術に大きく寄与した。
当初、東海ゴムではブリヂストンに対する気兼ねがあったが、これを機にプリンスは東海ゴムにだけはゴム部品を発注できることになったという[5]。
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