フィニアス・ゲージ 脚注

フィニアス・ゲージ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/21 14:35 UTC 版)

脚注

  1. ^ a b Lena & Macmillan (2010), B. & J. ウィルガスの引用もしている。ここに見られる写真はテキサスのタラ・ゲージ・ミラー氏の所有物で、全く同じ写真がニュージャージーのフィリス・ゲージ・ハートレー氏の所有物となっている(ゲージに子供がいたという例は知られていない。Macmillan 2000, pp. 319,327を参照。この人物らはゲージの親戚のうちのいずれかの子孫である。Macmillan & Lena 2010, p. 4を参照)。 ダゲレオタイプの原板であるウィルガスの肖像写真とは異なり、ミラー氏やハートレー氏の写真は、それ自体の原板はダゲレオタイプかその他の初期の左右反転した写真である未発見の一枚の写真を、19世紀に複製したものである。ゲージの生前の姿を示すために、この記事では補助的に左右反転して表示してある。ゲージのシャツとネクタイは、ウィルガスの写真とミラー氏・ハートレー氏の写真とでは異なっているが、チョッキは同じものを身に着け、おそらく上着も同じものだと思われる。Wilgus, B. & J. “A New Image of Phineas Gage”. 2010年3月10日閲覧。 を参照。「長年の仲間」については Harlow 1868, p. 340 を参照。
  2. ^ a b c d ゲージの両親は、ジェス・イートン・ゲージ (Jesse Eaton Gage)とハンナ・トルッセル・ゲージ (Hannah Trussell Gage)であるが(Macmillan (2000), pp. 490–1)、Macmillan (2000), pp. 11, 16ではゲージの誕生と成長に関する他の状況(とりわけ正確な生誕地)が不正確であることが述べられている。生まれ故郷として候補になっているのは、ニューハンプシャー州レバノン (Lebanon, New Hampshire)、エンフィールド (Enfield, New Hampshire)、グラフトン (Grafton, NH)である(これらはすべてニューハンプシャー州グラフトン郡 (Grafton County, N.H.)に位置する)が、ハーロウは1868年の論文でこのうちからレバノンをゲージの「生まれた地」であり、ゲージが事故後10週間めに帰った「彼の故郷」(おそらくゲージの両親の故郷でもある)としている。 ゲージの死と埋葬は Macmillan (2000), p. 108 で議論されている。ハーロウはゲージの死亡日を”ぴったり”1年ずらしていて、ゲージの人生の後半に生じた事でハーロウが日付を提示しているいくつかの出来事-チリからサンフランシスコへの帰還や痙攣の発症-の日付も、おそらく同じだけ異なっている可能性がある。この記事では日付を正すためマクミランの文献に従う。 ゲージのミドルネームの頭文字が「P」であることはまず間違いないが (figure, Macmillan 2008, p. 839; Harlow 1848/1868; Bigelow 1850)、Pが何の頭文字であるかを示す情報はない。突き棒に彫り込まれたゲージのファーストネームについての注意書きも参照のこと。
  3. ^ a b ザ・ボストン・ポスト (en)、1848年9月21日。ここに示された記事は、出版物で述べられた突き棒の長さと直径についての誤りを修正するものである。また、「上顎を砕いて」という言葉は、この初期の報告を引用するにあたって省かれるようになったが、これはゲージの上顎が実際には砕かれなかったからである (突き棒の貫通路の詳細についての論文 Harlow 1868, p. 342 を参照)。
  4. ^ a b Bigelow (1850), pp. 13–14. Harlow (1868, p. 344)でゲージが命を永らえられた状況のひとつに挙げられている。「弾道弾の形状、すなわち先がとがっていて、円く、わりあい滑らかであり、長時間の衝撃や圧迫を後まで残さない。」ビグローは論文で突き棒の先細り部分の長さを7インチとしているが、正しい寸法は12インチである。 Harlow (1848), p. 331 and Macmillan (2000), p. 26.を参照のこと。
  5. ^ Bibliographical notices. Recovery from the Passage of an Iron Bar through the Head. By John M. Harlow, M.D., of Woburn. (1869). Boston Medical and Surgical Journal, March 18, 1869. 3(7)n.s.:116–117. 19世紀当時のゲージに関する医学記事では(類例のないような他の脳損傷事故の被害者についても同様ではあるが)、驚いて当惑した文体が見られるのが普通であった。無味乾燥に「この事件の最も注目すべき点は、ありそうもない事が生じた点である。…劇場のパントマイムでもなければありそうにもない類いの事故である。」と記したビグローは (1850, pp. 13,19) 、「はじめは頭から疑っていたが今では個人的には納得している」と述べ、この事件を「外科の年代録でも見たことがない」と述べている。ビグローの名声は他の外科医との間でゲージを嘲ることで終了した。この外科医の一人だったハーロウは (1868, p. 344) 、後にこの事を「ヤンキーの発明」と呼び退けている。

    ガスパイプが頭部を貫通したが助かった鉱夫の事故や、鋸が前額部に9インチの深さで食い込んだにもかかわらず速やかに元の仕事に復帰した製材所の職長の事故とゲージの症例が結び付けられるようになってから後、『ボストン内科外科雑誌』(1870年)は脳には果たして何らかの機能があるのかと疑うそぶりを見せた。「鉄の棒だの、ガスパイプだの、その他胡散臭い代物の突飛さは覆されたし、自ら何かを言おうとはしない。最近では脳に重要な価値などないように思える。」 The Transactions of the Vermont Medical Society (1870年)も同様に滑稽な述べ方をしている。「『これまでは、』とマクベスは言った、『脳味噌が無くなると人は死ぬものだった。しかしまたしても奴らは立ちあがる。』ドイツのどこかの教授が脳味噌を取り出そうとしているという知らせを聞く可能性は十分ありうる。」

  6. ^ 9月24日:「虚弱になってきている。…この3日間というもの昏睡が深まっている。左の眼球はますます突出してきており、内眼角からは菌が急激に生え出てきている。…大きな菌もまた傷を負った脳から急激に増殖して、頭頂部から飛びだしている (Harlow 1868, p. 335)。」 ここでの「菌」は感染性の真菌類ではなく、おそらく損傷治癒に伴う海綿状の生成物で、創傷部で活発に肉芽が形成されていたのであろう(Macmillan 2000, pp. 54, 61–2)。
  7. ^ Macmillan (2000), pp. 25–27
  8. ^ 一般に言われているのとは反対に、バーナム米国博物館は常設の博物館であり、巡行博物館ではない。ゲージが巡行興行師やサーカス、移動遊園地などに交じって公演していたという確証はない (Macmillan & Lena 2010, pp. 3–4)。
  9. ^ Text of inscription from Macmillan, M. “Corrections to An Odd Kind of Fame”. 2010年2月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年10月2日閲覧。 事故の日付は1日先になっている。またPhinehasはゲージが自分の名をこのように綴ったというものとは異なるようである(figure, Macmillan 2008, p. 839);が、綴り表記の標準化はこの時代にはこれが誤りであるとはっきり言えるほどにはしっかり確立されていなかったのかもしれない。ゲージのミドルネームの頭文字についての先の脚注も参照。この彫り込みは、鉄の棒がウォーレン解剖学博物館の収集品のひとつになることを見越してハーバード大学のビグロー博士が依頼したものである。ゲージの”サイン”に続く日付は、ゲージがボストンにいてビグローの診察を受けていた時期の後半と一致する。
  10. ^ a b Ratiuらによる2004年の研究は、棒が突き抜けて出てきた部位の後ろから頭蓋骨の前面を降りている毛髪様骨折に言及している唯一の研究であり、頭蓋底部の穴(突き棒が通り抜ける際に生じたもの)が鉄の棒そのものよりも小さな直径であると思われる - 頭蓋底に突き棒が刺さったとき頭蓋骨が蝶番のように開き、棒が頭頂部から抜け出たあと軟部組織の弾性力によって引き寄せられて閉じたという仮説が成り立つ - 点も指摘している。 See Macmillan (2008), p. 830.
  11. ^ ハーロウは、ゲージが完全に健康で、強靭で積極的な若い男性 - 活動的な性格で、精気に満ち溢れ、身長は5フィート6インチ、体重は標準的な150ポンド、頑健な身体とともに頑健な意思も持ち合わせ、筋肉は並外れて発達しており、子供のころから事故で負傷するまでほとんど一日も病気になったことがない - であったと書いた。彼はまた、突き棒によってできたゲージの頭蓋と口とをつなぐ開口部の重要性を挙げ、「この頭蓋底部に出来た開口部が無ければ、排液ができず、回復は見込めなかっただろう」とした。ゲージの生存に関してのハーロウ自身の役割については、「あのアンブロワーズ・パレと同じことしか申せません。我包帯し、神が癒し給うた。」とのみ主張している (Harlow 1868, pp. 330, 344, 346)。マクミランはこれを「あまりに奥ゆかしすぎる」と評価している(Macmillan 2000, pp. 12, 59–62, 346–7; この症例に対するハーロウの処置のより深い議論はMacmillan 2008, p. 828–9; Macmillan (2001); と Barker 1995, pp. 679–80 も参照。)
  12. ^ a b c Macmillan & Lena 2010によれば(またMacmillan 2000, pp. 11, 89, 116も参照のこと)、入手可能な情報源で、ゲージについての詳細な情報が記されたものや、ゲージや彼の家族と直接の接触があったという証拠が(たとえ情報源自体にそう述べられているだけにしても)あるものは、2008年までは、ハーロウの論文(1848年、1849年、1868年)、 ビグローの1850年の論文
    • Jackson, J.B.S. (1849) Medical Cases (Vol 4, Case 1777) Countway Library (Harvard University) Mss., H MS b 72.4 (quoted at Macmillan 2000, p. 93)
    • Jackson, J.B.S. (1870) A Descriptive Catalog of the Warren Anatomical Museum Nos. 949–51, 3106 (Republished in Macmillan 2000, in which see also p. 107)
    に限られていた。 マクミランとレーナの2010年の論文 は、論文全体に、2008年以降に発見された、それまで未知の資料を提示している。
  13. ^ ゲージの友人・家族・主治医らが彼のことを否定的に評価していたか、とりわけ彼が生きている間はどうだったかは、一層の研究が必要であろう (Macmillan 2000, pp. 106–8, 375–6)。Macmillan (2000) pp. 350–1では、1850年の会話でゲージを「乱雑で冒涜的で粗野で下品」と読んでいるのはハーロウが匿名で書き加えたものかどうかという議論が起きている。
  14. ^ 例えば、ハーロウが1868年に「気まぐれで、礼儀知らずで、…気まぐれで移り気」と記述したゲージの様子は、彼がチリで、御者に「信頼でき、機知に富み、我慢強く、かつこれ以上に大事なのは、乗客とうまくやっていけるような人格の持ち主である必要がある」ことを要求される乗合馬車の仕事に就いていたことと相反するものである。(Macmillan 2000, p. 106, citing Austin K.A. (1977). A Pictorial History of Cobb and Co.: The Coaching Age in Australia, 1854–1924. Sydney, Australia: Rigby. ISBN 0-7270-0316-X )。Macmillan (2000), pp. 376–7 and Macmillan (2008), p. 839も参照のこと。
  15. ^ Macmillan 2000, p. 327 ではゲージの性生活についての情報が完全に欠如していることについて述べられ、Macmillan & Lena (2010)ではこれに類いするデータが見つかっていないままである事について議論がなされている。
  16. ^ 「遺体を墓から掘り出したことに触れているのはハーロウのみであり、彼は突き棒がその時に取り戻されたとは言っていない。彼の言っている内容は多少曖昧かもしれないが、だからと言って、ゲージの突き棒が墓から舞い戻ってきたという、正反対でどこにも記録されていない内容が保証されるわけではない。」(Macmillan & Lena 2010, p. 7, referring Harlow 1868, p. 342).
  17. ^ Barker (1995); Macmillan (2000), Ch. 9, esp. p. 188. 例えば、デュピュイ(1877年)はゲージの症例を、脳が局在化していない証明として引用したが、フェリア(1878年)はその反対の視点の根拠としてゲージを引用している。
  18. ^ 「[初期の精神外科の発展に関与した者のうち誰も]精神科の患者が[ゲージのような]脱抑制した行動を慎重に誘発してもらうことから利益を得るのかという議論をしようとはしなかった。」 (Macmillan 2000, p. 250)
  19. ^ ダゲレオタイプ肖像写真、ジャックとベヴァリー・ウィルガスのコレクションより。 オリジナルでは、他の大抵のダゲレオタイプと同様、被写体を左右反対に映しているため、ゲージの右眼が損傷しているように見える。しかし、眼のものも含めたゲージの負傷がすべて左側にあったことには疑いがない。したがって、この図をここに挙げるにあたって、ゲージが実際にはどのような姿だったかを示すため写真を左右反転させてある。






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