フィニアス・ゲージ その後の人生と旅行

フィニアス・ゲージ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/21 14:35 UTC 版)

その後の人生と旅行

岩の間の切土を通る軌道(バーモント州カヴェンディッシュの南方)。ゲージはこの切土か近傍の同じような切土を造るために爆薬を仕掛けていて事故に遭った。[脚注 7]

11月25日までには、ゲージはニューハンプシャー州レバノンの実家へ帰れるくらい健康を取り戻していた。12月の末には「精神的にも身体的にもすっかり良くなり、実家へ馬で向かった」。1849年4月にはカヴェンディッシュへ戻ってきてハーロウを訪問している。このときハーロウは、ゲージの左眼の視力の消失と眼瞼下垂、額の大きな傷痕、および「頭頂部には…深い陥凹がある。長さ2インチ、幅は1インチから1インチ半で、直下に脳血管の拍動を触れる。顔面の左半側に部分麻痺」があることに注目している。これらの症状にもかかわらず、「彼の身体の健康状態は良好であり、私は彼が回復したと認めるのにやぶさかではない。頭は痛まないが、説明しがたい変てこな感覚がすると述べている」[11]

ハーロウによると、ゲージは元の鉄道敷設の仕事に戻れなかったため、ニューヨーク市のバーナム米国博物館 (en:Barnum's American Museum[脚注 8])にしばらくの間顔を出していたとされるが、これを裏付ける独立した情報はない。しかしながら、近年、ゲージが”もっと大きなニューイングランドの街で”大衆の前に姿を現したというハーロウの発言を支持するような証拠が浮かび上がってきた[12](ゲージの失業と公衆の面前への登場については下の文章も参照)。

ゲージはのちにニューハンプシャー州ハノーバーの貸し馬車屋で働き、それからチリバルパライソ - サンティアゴ間の長距離乗合馬車の御者として何年間か働いた。彼の健康状態が衰え始めた1859年ごろに、ゲージはチリを出てサンフランシスコに移り、母親と姉妹の世話のもと体調を回復した(家族は、ゲージがチリに行った頃にニューハンプシャーから引っ越してきていた)。その後の数か月間、ゲージはサンタクララの農場で働いた[13]







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