フィニアス・ゲージ
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その後の人生と旅行
11月25日までには、ゲージはニューハンプシャー州レバノンの実家へ帰れるくらい健康を取り戻していた。12月の末には「精神的にも身体的にもすっかり良くなり、実家へ馬で向かった」。1849年4月にはカヴェンディッシュへ戻ってきてハーロウを訪問している。このときハーロウは、ゲージの左眼の視力の消失と眼瞼下垂、額の大きな傷痕、および「頭頂部には…深い陥凹がある。長さ2インチ、幅は1インチから1インチ半で、直下に脳血管の拍動を触れる。顔面の左半側に部分麻痺」があることに注目している。これらの症状にもかかわらず、「彼の身体の健康状態は良好であり、私は彼が回復したと認めるのにやぶさかではない。頭は痛まないが、説明しがたい変てこな感覚がすると述べている」[11]。
ハーロウによると、ゲージは元の鉄道敷設の仕事に戻れなかったため、ニューヨーク市のバーナム米国博物館 (en:Barnum's American Museum[脚注 8])にしばらくの間顔を出していたとされるが、これを裏付ける独立した情報はない。しかしながら、近年、ゲージが”もっと大きなニューイングランドの街で”大衆の前に姿を現したというハーロウの発言を支持するような証拠が浮かび上がってきた[12](ゲージの失業と公衆の面前への登場については下の文章も参照)。
ゲージはのちにニューハンプシャー州ハノーバーの貸し馬車屋で働き、それからチリでバルパライソ - サンティアゴ間の長距離乗合馬車の御者として何年間か働いた。彼の健康状態が衰え始めた1859年ごろに、ゲージはチリを出てサンフランシスコに移り、母親と姉妹の世話のもと体調を回復した(家族は、ゲージがチリに行った頃にニューハンプシャーから引っ越してきていた)。その後の数か月間、ゲージはサンタクララの農場で働いた[13]。
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