ピエタ (ミケランジェロ) フィレンツェのピエタ

ピエタ (ミケランジェロ)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/12 18:56 UTC 版)

フィレンツェのピエタ

『フィレンツェのピエタ』。

概要

ミケランジェロが手がけた2つ目のピエタは、現在の収蔵場所であるフィレンツェのドゥオーモ博物館にちなんで『フィレンツェのピエタ』または『ドゥオーモのピエタ』と呼ばれる。正確な制作年代は明らかになっていないが、コンディヴィの伝記やヴァザーリの証言などから、1547年 - 1548年に着手して1552年 - 1553年まで制作を続けていたことはほぼ間違いのないこととされている。ともあれ、この作品はミケランジェロ自身の手によって壊され(彫刻家がみずからの作品を破壊した例としては最初のものである)、未完成のまま残されることとなった。

ミケランジェロがその晩年に制作した彫刻3点(『パレストリーナのピエタ』を真作と認めないならば2点)はいずれもピエタを題材とするものであった。1540年代の半ばを過ぎたころのミケランジェロは、親しい友人を次々と失ってゆく孤独感に加えて肉体の衰えも顕著になり、自身の死をも意識せざるをえなくなっていた。約半世紀ぶりにピエタの制作へ挑んだのは、それを自分の墓所に飾るためだったのである。1555年頃にこの作品の制作を放棄するまで、ミケランジェロはローマのサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂にこの像を飾り、その足下へ埋葬されることを望んでいたという証言をヴァザーリやコンディヴィがそれぞれ残している。

ミケランジェロがこの作品を途中で壊して制作を放棄するに至った原因や正確な日時についても、いくつかの食い違った証言が残っているばかりで判然としない。大理石の質が悪くてうんざりしていたので壊したという説や、イエスの足が不慮の事故で壊れたのが先で、ミケランジェロは止めを刺しただけだという説などがあるが、いずれにせよミケランジェロはこの作品にみずからハンマーを打ち下ろし、イエスの左の手足とマリアの腕が壊された。

像の主部と腕の破片は弟子のアントニオ・ダ・ウルビーノに与えられ、その後フランチェスコ・バンディーニに売却された。このバンディーニの依頼を受けて腕の破片を修復したのはティベリオ・カルカーニである。カルカーニは失われた足も新たに制作して取り付けることを考えたが、台座の前部中央に穴を開けたところで断念している(足の破片はダニエレ・ダ・ヴォルテッラが所有していたとも伝えられる)。そのため『フィレンツェのピエタ』はイエスの左足を欠いたままの姿で残されることとなった。その後1664年メディチ家コジモ3世がこれを買い取り、しばらくのあいだサン・ロレンツォ聖堂に置かれていたが、1721年サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂に移転した。

構成

この作品には4人の人物が描かれている。十字架から降ろされたばかりのイエスの遺体(中央)、ニコデモ(上)、マグダラのマリア(左)、未完成のままの聖母マリア(右)である。

ミケランジェロがこの作品において心がけたのは、史実にもとづいた場面を描くことよりも「Non vi si pensa quanto sangue costa(いかほどの血が流れたのか、知るよしもなし)」(『神曲』「天国篇」第29歌)という自分自身に対する個人的な訓戒を形にすることだったようである。この一節は、彼が思慕を寄せる未亡人ヴィットリア・コロンナのために書いた「ピエタ」の素描において十字架の柱に書かれていたものであり、この素描の構図こそ、晩年に制作された一連のピエタの出発点となったものだからである。ただ、4人の人物の配置こそ引き継がれているものの、素描においては中央のイエスを囲んで上には十字架を背にして天を仰ぐ聖母マリアが、左右にはイエスの腕を取る2人の天使がいたのに対し、フィレンツェのピエタにおいてはマリアがいた位置にニコデモが、天使のいた位置に聖母とマグダラのマリアが置かれることになった点が注目に値する(フィリッポ・リッピによる先行作品を参考にした可能性が指摘されている)。サン・ピエトロのピエタではマリア1人がイエスの全身をしっかりと支えていたが、ここでは力なくずり落ちる遺体を3人が取り囲み、かろうじて支えているという痛ましい情景を描くことで、イエスの死が効果的に表現されている。

解釈

右に見える聖母マリアはほとんど粗彫りしかされていない状態であり、いかにも未完成だが、左のマグダラのマリアはほぼ仕上がっている。他の3人が切り分けられないままの状態であるがゆえに却って苦痛や恐怖を共有するかのような一体感をもつのに対し、1人だけ分離されたマグダラのマリアが「浮いて」しまっていることや、他の3人よりもサイズが小さすぎることなどから、マグダラのマリアだけ仕上がっているのは腕を修復したカルカーニの手が入っているためではないかとも推測されている。

頭巾の下のニコデモの顔はミケランジェロ自身をモデルにしたものだという定説は、やはりヴァザーリの証言による。この人物をニコデモではなく、ニコデモとともにイエスの遺体を引き取りに行ったアリマタヤのヨセフだと解釈する研究者もあるが、頭巾とマントを身につけているのが『ヨハネによる福音書』(3:1 - 21)における「ニコデモが夜ひそかにイエスのもとを訪ねて行った」という記述に対応させたものと考えるのが自然であるため、この見解を支持する研究者は少ない。


  1. ^ 片桐史恵「ミケランジェロの死生観に関する一考察 : 作品「ピエタ」を中心に」『中部学院大学・中部学院大学短期大学部研究紀要』第9号、2008年3月、35-41頁、NAID 400162303682020年4月14日閲覧 
  2. ^ 「聖母に何の恨みが 「俺はキリスト」と犯人」『朝日新聞』昭和47年5月22日夕刊、3版、9面





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