ドイツと連合国の休戦協定 (第一次世界大戦) ドイツと連合国の休戦協定 (第一次世界大戦)の概要

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ドイツと連合国の休戦協定 (第一次世界大戦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/07 17:04 UTC 版)

第一次世界大戦におけるドイツと連合国の休戦協定
1918年11月11日、ドイツと連合国との休戦協定が合意に達した後に撮影された写真。コンピエーニュの森に置かれたフェルディナン・フォッシュ(右から二人目)の司令部用の車両の前にて。
通称・略称 ドイツと連合国の休戦協定
署名 1918年11月11日
署名場所 コンピエーニュの森
締約国 ドイツ連合国
主な内容 第一次世界大戦の西部戦線での休戦協定
関連条約 ヴェルサイユ条約
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フランスコンピエーニュの森に置かれた列車の車両で署名され、第一次世界大戦の西部戦線での戦闘に終止符を打った。

概要

主たる署名者は、連合国軍総司令官で連合国側首席全権のフランス軍元帥フェルディナン・フォッシュと、帝政ドイツの無任所大臣で停戦委員会委員長のドイツ側首席全権マティアス・エルツベルガー

停戦期間は当初一ヶ月であり、その後ヴェルサイユ条約の締結によって講和が成立するまでの間に2回延長された。

1914年7月28日に勃発し、空前の犠牲者を出した第一次世界大戦の戦闘行為は1918年11月11日に実質的に終了し、この日は「リメンブランス・デーRemembrance Day, Poppy Day, Armistice Day, Veterans Day)」としてイギリス連邦諸国では休日となっているほか、第一次世界大戦に参戦した他の複数の諸国でも、休戦記念日、「戦没者を追悼し、退役軍人を記念する日」(復員軍人の日)となっている。

交渉過程

休戦協定締結の場の絵画。左からエルンスト・ファンゼロウ大佐、アルフレート・フォン・オーベルンドルフドイツ語版外相、ヘルメットをかぶった人物がデトレフ・フォン・ヴィンターフェルトドイツ語版ジャック・マリオット英語版大佐。テーブルに着こうとしている人物がドイツ側首席全権のマティアス・エルツベルガー。 テーブルについている人物は左から、イギリスの海軍軍人ジョージ・ホープ英語版少将、 第一海軍卿ロスリン・ウェミス英語版大将、そしてフランスの二人の軍人、立っている人物が連合国側首席全権フェルディナン・フォッシュ元帥、続いてマキシム・ウェイガン大将
1918年11月11日、休戦協定当日の『ニューヨーク・タイムズ』の1面

休戦協定は1918年11月11日の午前5時(GMT)に同意され、パリ時間の午前11時(「11月11日11時」としてしばしば言及される)に発効した。それは慌しくかつ必死の交渉の結果であった。

ドイツ軍参謀総長パウル・フォン・ヒンデンブルク11月7日、フランス軍元帥フォッシュに電報を打って会議の設定を要請した。ヒンデンブルクは、ベルリンミュンヘンその他ドイツの全域で差し迫った革命(ドイツ革命)の圧力を受けていた。11月3日キール軍港で起こった水兵の反乱をきっかけに、兵士や労働者の蜂起が各地に広がっており、11月7日にはミュンヘンからバイエルン王ルートヴィヒ3世が逃亡し王政が転覆される事態となっていた。

ドイツ代表団は5台の自動車で最前線を通過し、護衛とともに北フランスの荒廃した戦野を10時間にわたって横切った。そして列車に乗せられ、秘密の目的地(コンピエーニュの森のフォッシュ元帥用の引込線)へ導かれた。

フォッシュは3日間の交渉の間、2回顔を見せただけだった。1回目は最初の日、ドイツ代表団が何を望んでいるか尋ねるために、2回目は最終日の署名のために。その間、ドイツ代表団は、連合国軍との取り決めの詳細についてフランス等の連合国軍士官と協議を行った。協定はドイツ側に課せられた占領地からの撤退と兵器の引き渡し、連合国軍側からのわずかな約束から成り立っていた。ドイツの海上封鎖は、完全な平和条約が合意に至るまで続けられることになった。

交渉は何の問題もなく進んだ。ドイツは2、3の不可能な要求(例えば、彼らの艦隊が保有する以上の数の潜水艦を廃棄することなど)を修正し、また連合国軍の条件の過酷さに対する公式な抗議を記録させることができたが、署名を拒否できる立場にはなかった。11月10日の日曜日に、彼らはパリから届いた新聞を見せられ、前日に皇帝ヴィルヘルム2世ベルギースパからオランダに逃亡し退位したことを知らされた。

マティアス・エルツベルガーは政府の崩壊によりベルリンからの指示が得られなくなったが、ベルギーのスパにいたドイツ軍参謀総長パウル・フォン・ヒンデンブルクと連絡することができた。ヒンデンブルクは彼に、戦争継続は不可能であり、どんな代償を払ってでも休戦協定に署名するように命じた。署名はパリ時間の午前5時12分から午前5時20分にかけて、コンピエーニュの森に引き込まれた食堂車2419D(「休戦の客車("Le Wagon de l'Armistice")」)でなされた。

主要人物

連合国軍側

ドイツ政府・軍側

  • マティアス・エルツベルガー(文民政治家)
  • アルフレート・フォン・オーベルンドルフ伯爵(外務省)
  • デトレフ・フォン・ヴィンターフェルト少将(陸軍)
  • エルンスト・ファンゼロウ大佐(海軍)

ウェイガン将軍とフォン・グレンネル将軍は(フランスの)文書には言及されていない。


  1. ^ Hans Michael Kloth. “Atempause für den Weltuntergang” (ドイツ語). デア・シュピーゲル. 2008年11月11日閲覧。
  2. ^ 吉川宏 & 1963-03, pp. 509.
  3. ^ 吉川宏 & 1963-03, pp. 495–496.
  4. ^ 吉川宏 & 1963-12, pp. 222.
  5. ^ 牧野雅彦 2009, pp. 218.
  6. ^ 最後の戦死者 伝令トレブションNHK BS世界のドキュメンタリー、2016年10月17日閲覧。
  7. ^ “The last soldiers to die in World War I”. BBCニュースマガジン. (2008年10月29日). http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/magazine/7696021.stm 2008年11月6日閲覧。 
  8. ^ “Michael Palin: My guilt over my great-uncle who died in the First World War”. ザ・テレグラフ. (2008年11月1日). http://www.telegraph.co.uk/news/newstopics/celebritynews/3329304/Michael-Palin-My-guilt-over-my-great-uncle-who-died-in-the-First-World-War.html 2008年11月1日閲覧. "我々は多くの心の痛む逸話を発掘した。例えばフランスの最後の戦死者オーギュスタン・トレブションは、午前11時直前に、停戦の後に温かいスープが飲めるということを戦友に知らせに行く途中で撃たれた。アメリカのヘンリー・ガンサー二等兵の両親は彼らの息子が、すべてが終わるたった60秒前に死んだという知らせに耐えなければならなかった。最後に戦死したイギリス兵は、ジョージ・エドウィン・エリソン二等兵だった。" 


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