ドイツと連合国の休戦協定 (第一次世界大戦) 取り決め

ドイツと連合国の休戦協定 (第一次世界大戦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/30 20:43 UTC 版)

取り決め

協定には次のような重要項目が含まれていた[1]

その後

停戦期間は36日間とされていたため、12月には一回目の期限延長が行われ、1919年1月13日までの延長が行われた。2回目の停戦延長は2月17日が期限であり、3回目の停戦延長はパリ講和会議の最中で行われた[2]。フランス側はこの機会を通じてドイツの休戦協定違反を指摘し、停戦条件を修正しようともくろんだが、ウィルソン大統領の強い反対によって受け入れられなかった[3]。5月にはヴェルサイユ条約がドイツ側に提示されたが、三首脳(ウィルソン、デビッド・ロイド・ジョージ英首相、ジョルジュ・クレマンソー仏首相)は調印拒否が行われた場合には再度戦争を開始することを合意していた[4]。ヴェルサイユ条約はドイツ国内の強い反対もありながらもかろうじて受諾が決定され[5]、1920年1月20日に同条約は発効した。アメリカと中華民国はヴェルサイユ条約に調印しなかったため、1921年8月25日に米独平和条約、1922年5月15日に中独平和回復協定をそれぞれ締結してドイツと講和している。

1940年ドイツの侵攻によりフランスが降伏し、6月22日にフランスとナチス・ドイツの間で休戦協定が結ばれた際、1919年の休戦協定締結の際に用いられ博物館に展示されていた客車がコンピエーニュの森の同じ場所に引き出され、第一次世界大戦の休戦協定と同じ状況下で締結が行われた。車両は戦勝の記念品としてベルリンまで運ばれたが、1945年テューリンゲンのクラヴィンケルで親衛隊によって破壊された。またドイツとの停戦記念碑も、フォッシュの像を除いてすべて破壊された。

最後の犠牲者

11月11日の追悼の日、キャンベラのオーストラリア戦争記念館(Australian War Memorial)の戦没者名銘板に差し込まれた赤いヒナゲシ(ポピー)の造花。追悼の日の象徴となっている

11月11日の朝、停戦の知らせは素早く軍に伝わったが、11時に停戦が始まる最後の瞬間まで激しい戦闘が続けられた。多くの砲兵部隊は、予備弾薬を運んで帰ることを嫌ってドイツ軍の目標を砲撃し続けた。連合国軍はまた、戦闘が再開されたときには最も有利な位置にいようとも考えていた。かくして2,738人の兵士が戦争の最終日に命を落とした。

最後に戦死したフランス兵はオーギュスタン・トレブションである[6]。彼は、停戦後に温かいスープが出されるということを戦友に伝えに行く途中で撃たれた。午前10時45分だった。最後に戦死したイギリス兵は第5ロイヤル・アイリッシュ槍騎兵連隊のジョージ・エドウィン・エリソンである。彼はその日の朝9時30分頃、ベルギーのモンス郊外での斥候任務中に戦死した。最後に戦死したカナダ兵はジョージ・プライスである。彼は停戦のわずか2分前、モンスの北で、退却するドイツ兵との路上での戦いで殺された。そして、第一次世界大戦で最後に死んだと考えられているのはアメリカ軍のヘンリー・ガンサー(1895-1918)である。彼は停戦実施のわずか60秒前に、おびえたドイツ軍によって(彼らも停戦が間近であることを知らされていたにもかかわらず)殺された。[7][8]

ドイツ軍の最後の戦死は11時の停戦の後に発生した。ムーズ・アルゴンヌ方面にいたトマス中尉は、彼とその部下が徴発していた民家をすでに引き払っていることを、接近してくるアメリカ兵に告げるために近付いたが、まだ停戦について知らされていなかった兵士によって射殺された。

エルツベルガーは、ほとんど無条件降伏の過酷な休戦協定に調印した責任者であったために、極右テロ組織コンスルのメンバーの手で1921年8月26日に暗殺された。




  1. ^ Hans Michael Kloth. “Atempause für den Weltuntergang” (ドイツ語). デア・シュピーゲル. 2008年11月11日閲覧。
  2. ^ 吉川宏 & 1963-03, pp. 509.
  3. ^ 吉川宏 & 1963-03, pp. 495-496.
  4. ^ 吉川宏 & 1963-12, pp. 222.
  5. ^ 牧野雅彦 2009, pp. 218.
  6. ^ 最後の戦死者 伝令トレブションNHK BS世界のドキュメンタリー、2016年10月17日閲覧。
  7. ^ “The last soldiers to die in World War I”. BBCニュースマガジン. (2008年10月29日). http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/magazine/7696021.stm 2008年11月6日閲覧。 
  8. ^ “Michael Palin: My guilt over my great-uncle who died in the First World War”. ザ・テレグラフ. (2008年11月1日). http://www.telegraph.co.uk/news/newstopics/celebritynews/3329304/Michael-Palin-My-guilt-over-my-great-uncle-who-died-in-the-First-World-War.html 2008年11月1日閲覧. "我々は多くの心の痛む逸話を発掘した。例えばフランスの最後の戦死者オーギュスタン・トレブションは、午前11時直前に、停戦の後に温かいスープが飲めるということを戦友に知らせに行く途中で撃たれた。アメリカのヘンリー・ガンサー二等兵の両親は彼らの息子が、すべてが終わるたった60秒前に死んだという知らせに耐えなければならなかった。最後に戦死したイギリス兵は、ジョージ・エドウィン・エリソン二等兵だった。" 




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