テレビ映画 アメリカでのテレビ映画

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > テレビ映画の解説 > アメリカでのテレビ映画 

テレビ映画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/09 01:38 UTC 版)

アメリカでのテレビ映画

1941年にNBCが初の商業放送を開始して以降、まだビデオテープレコーダ(VTR)の無い時代[9]で全てが生放送の時代がしばらく続くが、戦後世相が落ち着いてきた1940年代の終わり頃から、バラエティ番組や音楽番組以外にテレビ映画の製作が本格化した。しかし当時の大手映画会社のテレビに対する評価は低く、所属する俳優をテレビに使うことはなかった。テレビの前で1時間も1時間半もじっと小さいブラウン管[10]を見つめ続けることは無いと考えていたからである。したがって初期のテレビ映画の主演スターは劇場用映画で使われることは無く、また知名度のある俳優がテレビに出てくることは落ち目になったからと揶揄される時期があった。

最初は15分番組での帯番組として、やがて30分番組枠で毎週同じ時間帯・同じチャンネル(same time、same channel)で翌週も続けていく形態[11]が普通となった。これはアメリカでは時差があるためにフィルム撮影した映画なら同じ日に同じ時刻に同じ内容で放送できたからであった。

当初は子ども対象のものが多く、「ローン・レンジャー」「シスコ・キッド英語版」「スーパーマン」などが大手映画会社ではなく独立プロダクションが製作したものが多かった。これらに合わせて戦前に製作された子ども向けのB級映画を再編成した番組[12]も作られた。

そして、1948年にアメリカの連邦最高裁判所の判決で、ハリウッド映画メジャースタジオ独占禁止法に触れて、制作と興行が切り離されて、それまであったB級映画の製作が出来なくなった頃から、当時のB級専門の製作会社[13]がどっとテレビ映画の製作に乗り出してきた。これらのテレビ映画が西部劇・コメディ・ホームドラマ・私立探偵・刑事物などのジャンルの作品を製作して放送されていった。大半が30分番組の連続物[14]で1時間番組は無く、他に90分番組が作られたが、これは連続物でなく毎回違う内容の単発もの[15]を製作していた[16]

やがて1950年代半ばになると大手映画会社もテレビ映画に進出してきた。ここから1960年代半ばまでが、アメリカのテレビ映画の黄金時代と言われる時代である。ワーナー、20世紀FOX、コロンビア(製作は当時子会社のスクリーン ジェムズ)、MGMなどが加わった。これには当時劇場用映画が大作主義をとって、1本の超大作に製作費を注ぎ、製作本数の激減という状況になって余剰の人員をテレビへ投入せざるを得ない内情もあった。しかし、この頃からテレビ映画で育った監督や俳優がその後60年代に入ってから映画の世界で大活躍して有名監督や大スターになっていった。

そして30分番組がやがて60分番組に拡大して、番組も内容が求められるようになった時に、1961年5月に当時ケネディ政権発足と同時に連邦通信委員会委員長に就任したニュートン・ミノーが「アメリカのテレビは一望の荒野である」と発言して当時の3大ネットワークがテレビ映画番組の再検討を迫られる事態となった[17]。その影響で西部劇が下火となり、医者・弁護士物・戦争アクション・宇宙ファンタジーなどのジャンルの番組を並べたが次第に人気を落としていった。

ここで一つの問題が起こった。1960年代に入って、高いコストを避けるためヨーロッパなどで製作することが多くなり、ハリウッドの俳優の出演機会が減っていったとともに、テレビ映画が1本の作品で毎週撮影し続けるため、同じレギュラー陣の顔ぶれでストーリーを書き続けていて、マンネリ化と企画難、出演する俳優が限定され、そして製作費の高騰に悩まされていった。これに対する打開策として、テレビ局と映画会社が共同で製作費を出して単発のテレビ映画[18]を2時間番組の中で放映して、毎週違った作品を作り、放送後このフィルムを映画会社が権利を持って国内の二番館への劇場公開して、そして海外への輸出(輸出先での劇場公開が前提)する新しいシステムを作った。これがテレビジョン・ムービー(TVムービー)またはテレフィーチャーと呼ばれ、1964年に第1作としてドン・シーゲル監督の「殺人者たち」が製作された[19]。このTVムービーは1970年代に入ると多数製作されて、スティーヴン・スピルバーグ監督の本格的な商業デビュー作となる「激突![20]もテレビ映画として制作された。

毎週同じ顔ぶれの内容で放映されるTVシリーズと、そして毎週でなく一定の期間で放映されるものをTVミニシリーズとして放送されるようになった[21]。やがて一気に放映するスタイルとして1977年秋に天才と呼ばれた編成マンのフレッド・シルバーマンが「ルーツ」を毎日60分ごとに1週間通して放映するケースを編みだした[22]。こうしてTVシリーズ、TVミニシリーズ、TVムービーの形態として、現在もテレビ映画が制作され続けている。

配信サービスのオリジナル映画

2010年代以降、Netflixが大量の"オリジナル映画"を配信している。複数エピソードに渡る作品は「TV番組・ドラマ」とされ、1エピソードからなる作品は「映画」とされている。これらの作品はほとんど劇場公開されていないため、映画とはいえ自宅での視聴が主となる。その後、映画配給会社の系列企業でもある同業のDisney+Paramount+も追随してオリジナル映画を公開し、配信と並行して劇場公開するケースも増えており、テレビ映画と劇場版映画の境界はあいまいになりつつある。

テレビと映画の関係

テレビを取り巻く環境はテレビ映画がお茶の間に入った頃に比べて全く変化した。

テレビが開局された当時は映画館の入りが悪くなるとして、テレビを脅威として見る向きと、テレビを何とか有効に使えないかと模索する向きと、映画がテレビを取り込んでしまうことに警戒する向きがあった。この逆に映画を警戒する考え方は行政の側にあって、前述の独占禁止法で製作と興行部門を切り離すことで映画会社の勢いを削ごうとした政府の意図があったのでテレビに対しても映画会社の影響を排除しょうとした。そのために映画とテレビは対立する時期があったが、やがて有効な使い方として模索するところから、映画界にとってはテレビは自らの映像ソフトの重要な供給先であることに注目した。それはテレビが開始されてすぐに戦前からのB級西部劇のスターであったウイリアム・ボイドがその作品「キャシディ」シリーズを自ら権利を買い取り、戦後にそれらの作品をテレビに供給してシリーズで放送して成功したこともあった。その後はB級映画を作り直したり子ども向けの番組であったりしたが、やがて大人向けの作品を大手映画会社が製作するようになってから、今度はテレビでヒットした作品を再編集して劇場用映画にし直すことも行い[23]、やがてTVムービーで映画会社はテレビという媒体を使って複合メディアに同時に対処する新しいビジネス戦術を磨いていった[24]

そして映画の前宣伝をテレビで周到に大規模に行い、映画館での上映の後にはテレビで放映し、2次的や3次的使用を視野に多角的戦略を立て、TVムービーもテレビで放映された後に、すぐに二番館での公開上映や海外での初公開や販売も戦略の中で行うことになった。これは製作した映画がテレビ用でも劇場用でもすでに同じ映像ソフトであることを示している。


  1. ^ ウイリアム・ボイド主演の西部劇「ホパロング・キャシディ」(日本では「我等がキャシディ」)は1935年から1948年まで66本が製作されて、それを1948年11月からテレビ用に再編集して放映された。またジョン・ウェインの無名時代の10年間に出演した西部劇を30分前後編で放映されている。
  2. ^ 一方日本でも、1956年から東映で製作された『警視庁物語シリーズ』をその後TVシリーズとして放映されている。
  3. ^ a b 高橋浩『視聴率15%を保証します! あのヒット番組を生んだ「発想法」と「仕事術」』小学館新書、2014年、pp.86-94
  4. ^ かつてテレビ朝日系「土曜ワイド劇場」の前に「土曜洋画劇場」が放送されて、「日曜洋画劇場」(淀川長治)が大作を放映し、それ以外の作品を放映していたが、やがてTVムービーをそのまま放映することが多かった。その時に解説者が「テレビ劇映画」と説明していた。
  5. ^ この場合は一体型のビデオカメラではなく、別途設置の録画機材と接続していた。
  6. ^ 初期の大河ドラマでは1965年「太閤記」や1969年「天と地と」などは野外での合戦シーンはフィルムであった。また「太閤記」の本能寺の変や1966年「源義経」の義経の最期は全てフィルム撮影であった。
  7. ^ アメリカでも初期の「トワイライト・ゾーン」のいくつかのエピソードがスタジオからの映像で、それを映した映像画面をフィルム撮影したもの(キネコと呼ばれた)で日本に輸入されているものがあった。
  8. ^ 初期には「ロビンフッドの冒険」、「アイバンホー」、人形劇「サンダーバード」、「プリズナー№6」「ザ・セイント」「名犬ロンドン物語」などがあるがアメリカに比べると少ない。
  9. ^ この時代には録画記録するものとしてテレビ画面を直接フィルムで撮影して、そのフィルムで後から再放送する方式もあった。またVTRは日本よりも少し早く1956年頃には使用しており、「エド・サリバン・ショー」もきれいなビデオテープで映像が保存されている。
  10. ^ 初期のブラウン管はアメリカが17インチ、日本では14インチが標準であった。
  11. ^ 日本では毎週製作して年間52本で続ける形態があるが、アメリカではこの時代は年間39本で夏期間はお休みするのが普通であった。やがて60年代に入ると年間26本前後の製作本数が通常となった。
  12. ^ これらの中には「ちびっこギャング」「3ばか大将」などがあり、また前述のローンレンジャーも戦前のB級西部劇からの流れであった。
  13. ^ リパブリック、モノグラムなど。
  14. ^ 毎週同じ顔ぶれのレギュラー出演でストーリーが展開される。基本は1回ごとに話の区切りがある1話完結方式である。この方式の欠点は出演俳優が固定化することで、やがてこのことがテレビ映画の衰退につながった。
  15. ^ 後の日本での土曜ワイド劇場と同じ形式で、1964年開局した当時の東京12チャンネル(現・テレビ東京)が放映した「プレイハウス90英語版」がこのジャンルに属する。そしてこの「プレイハウス90」に出演した俳優(スティーブ・マックイーンなど)が60年代以後に大物スターになっていった例が多い。
  16. ^ なお90分のシリーズとしては1962年の西部劇「バージニアン」が最初である。
  17. ^ ミノー委員長の発言は西部劇などの暴力場面や他のバラエティ番組の低俗さを指摘したとされている。しかし今日のテレビ内容から比較するとこの時代のテレビ映画の内容はまだ軽いものであった。
  18. ^ 当然35mmフィルムで撮影されて、テレビ局のCMタイムを考えて最初の脚本段階からCMまでに細かいエピソードが終わるようにしてシークエンスする(画面が黒くなって終わる)。古い旧作映画を放映する時に、ありがちなストーリー展開で重要な場面で突然コマーシャルが入って興ざめすることのないようにシナリオ作りがされている。
  19. ^ ただしこの作品は暴力的すぎるとしてテレビ局が放映せず、結局劇場公開された。
  20. ^ 1971年にテレビ放映され、翌年日本で劇場公開されその後テレビでの放映もされている。そして本国アメリカで劇場公開されたのは1983年である。
  21. ^ 刑事コロンボ」がTVミニシリーズとされたが、アメリカではTVシリーズの範疇に入っている。
  22. ^ その後も「ケインとアベル」「ホロコースト」などが放映された。
  23. ^ 「The FBI」や「ナポレオンソロ」が放映したエピソードを劇場用に編集して劇場公開を60年代半ばに行っている。なおこの形式はすでに日本でも「七色仮面」が1960年に東映が行っている。
  24. ^ この項は「ハリウッド100年史講義」北野圭介著 209~209P 参照。
  25. ^ 正確には民放初のサスペンスドラマの連続番組というほうが正しい。1953年8月に開局した日本テレビが10月25日(日)の夜から毎週放送した『わが家の日曜日記』が連続ホームドラマのはしりであり、ほぼ同じ時期にNHKで連続ホームドラマ『幸福への起伏』がスタートしている。前者は半年、後者は3か月の放送であった。コメディーでは日本テレビが1954年3月からフランキー堺中村メイコで『二人でお茶を』(2年間放送)、同年6月から『エノケンの水戸黄門漫遊記』(半年間放送)がスタジオドラマとしてあった。『テレビ30年 IN テレビガイド』8~12P参照
  26. ^ これより1年前の1955年に同じKRTがアニメの『スーパーマン』を放映している。輸入されたものとしてはこちらの方が早い。
  27. ^ 松竹、東宝、東映、大映、新東宝の5社で結んだが、後に新東宝が倒産して日活が加わった。
  28. ^ これはこの時までに各社の古い映画をNHKも民放も放送していたが、その放送料の金額で対立したことが発端であった。
  29. ^ 3か月後に30分に拡大した。
  30. ^ 各社に呼びかけたがどこも手を上げなかったので、広告代理店が自主的に製作したものである。しかもカメラは報道で使う手巻きのハンディカメラで音声録音は出来ず、フィルムの長さが限定されて、それほど長いカットの撮影が出来なかったと言われている。しかしそのことで逆に短いカットを積み重ねることによってテンポの速い展開になったと言われる。
  31. ^ 撮影場所に宜弘社の社長宅の部屋とガレージを使った。
  32. ^ 豹の眼」「まぼろし探偵」「七色仮面」「少年ジェット」「ナショナルキッド」「快傑ハリマオ」など。
  33. ^ さらに日本テレビは1959年 - 1961年にかけて、後述の日米映画と共同で製作した10作品ほどのテレビ映画を、放送直後に新東宝の配給で劇場公開するという、当時では珍しい試みを行っていた(この点で、テレビ局制作による劇場映画の先駆けといえる)。
  34. ^ それ以降も東映は現在のテレビ朝日ホールディングスにおける筆頭株主で、朝日新聞社は第2位株主である。
  35. ^ その系譜は現在の角川大映スタジオにつながる。
  36. ^ ただし、東映は放映後に劇場公開をすることで35mmフィルムを使っていた。
  37. ^ ただ、その過渡期において撮影や照明、美術などで、16mmフィルム撮影の技術や環境を一部そのままビデオ撮影でも踏襲したため、フィルム撮影の時には発生しなかった、陰影や深みのない平板な画像になってしまったり、撮影用装置のうち建物など大道具の粗雑さが目だったりと、ビデオ撮影のノウハウを習得し終わらないままでフィルム撮影からビデオ撮影に移行した現場の状況もあった。
  38. ^ 演出の藤村忠寿は、2008年8月17日放送の『はい!テレビ朝日です』内のインタービューにて、「映画を作るつもりで制作した」と述べている。
  39. ^ スペシャルドラマ自体は1996年から制作されているがVTR撮影だった。


「テレビ映画」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「テレビ映画」の関連用語

テレビ映画のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



テレビ映画のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのテレビ映画 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS