スティエパン・トマシェヴィチ (ボスニア王) ボスニア国王として

スティエパン・トマシェヴィチ (ボスニア王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/15 09:03 UTC 版)

ボスニア国王として

王位継承と戴冠

ローマ教皇ピウス2世。スティエパン・トマシェヴィチの治世については、ピウス2世の回顧録からうかがい知れる部分が多い。

1461年7月、ボスニア王スティエパン・トマシュが死去した。後の文献によれば、彼の死は息子であるスティエパン・トマシェヴィチや弟ラディヴォイの陰謀によるもので、マーチャーシュ1世やメフメト2世まで関与していたという。しかし歴史家たちは、トマシュ王が6月の時点で病に臥せっていたことから、この陰謀説を否定している[22]。スティエパン・トマシェヴィチは長きにわたり王位を狙ってきた叔父ラディヴォイに気前よく領地を与えたことで、自身はスムーズにボスニア王位を継承することができた[23]。1461年11月17日、スティエパン・トマシェヴィチはヤイツェで戴冠集会を開き、ピウス2世の特使2人が持ってきた王冠を使って戴冠した。この時期のボスニアの大貴族はコサチャ家の内紛などで分裂・混乱状態にあったが、この戴冠集会には皆が参じて、王国の一体性を再確認した[24]。「ボスニア王」という称号はスティエパン・トヴルトコ1世に始まるもので、正式には「神の恩寵による、セルビア、ボスニア、ポモリェ、ザフムリェ、ダルマチア、クロアチア、西方領の王」と称していた。しかし実際には、セルビアはすでにオスマン帝国領(スメデレヴォ・サンジャク)となり、クロアチアは1390年代にハンガリーに奪われていた。またスティエパン・トマシェヴィチは、オスマン帝国が攻めてきたときに備えてダルマチアへの亡命を考えていたが、それすらもヴェネツィア共和国に許可を請わねばならなかった[25]

ボスニア王に即位したスティエパン・トマシェヴィチは、自らの地位を固めるため、直ちに王家内の不和の一掃にとりかかった。37歳の継母カタリナ・コサチャ=コトロマニッッチとの関係はトマシュ王の治世のころはあまり良好でなかったが、スティエパン・トマシェヴィチは彼女に王妃の称号と特権を維持することを認めることで関係を改善した。カタリナの父スティエパン・ヴクチッチ・コサチャは、王がカタリナを「自分の母として扱っている」とヴェネツィア当局に書き送っている[26][27]。なお実母ヴォヤチャは、スティエパン・トマシェヴィチの即位したころにはすでに世を去っていた[27]。コサチャはボスニア王国内で最強の大貴族で、トマシュ王とは延々と抗争を続けてきた人物だった。しかしスティエパン・トマシェヴィチが即位してからは、自分の実孫(スティエパン・トマシェヴィチの異母弟)シギスムンドを王位につかせようという動きを控えるようになった。おそらくこれは、コサチャ自身が、ボスニア王国が差し迫った危機を乗り越えるためには強く成人した王のもとで団結せねばならないと理解したためであった[26]。スティエパン・トマシェヴィチはヴェネツィアの助言に従ってことを進め、王国内の全貴族の支持を得ることに成功した[23][26][28]。続いて彼はボスニア経済の振興に取り組んだ。彼の治世の間に、ボスニアは金細工の輸出で大きな利益を上げ、経済的な繁栄を見せた[23]

しかし1461年夏、北方のクロアチアのバンであるパヴァオ・シュピランチッチが国境沿いのボスニア領の街を占領する事件が起きた。パヴァオはハンガリー王の名代としてクロアチアを統治しており、トマシュ王とは度々衝突を繰り返していた。夏の終わりまでに、スティエパン・トマシェヴィチとコサチャは協力してパヴァオを攻め、その領土を2人で分割する計画を立てていた[29]。しかしヴェネツィアがこれを止めに入った。もしダルマチア防衛の要であるクリス要塞とオストロヴィツァ要塞をボスニアが攻め落としたら、その防衛体制が脆弱になっている隙を狙ってオスマン帝国に横取りされるという事態を恐れたためであった[30]

スティエパン・トマシェヴィチは教皇庁との関係を固めるためにも奔走した。彼はピウス2世に対し、司教、十字軍のための兵器、戴冠式用の冠、ハンガリー王マーチャーシュ1世へのとりなしを求める自暴自棄のような嘆願を送った。教皇の催促があれば、ハンガリー王は早急にボスニアへ援軍を送ってくるだろうという期待があった[29]。11月17日、聖グレゴリオス・タウマトゥルゴス(ボスニアの守護聖人)の祝祭日に、かねてよりスティエパン・トマシェヴィチが招いていた教皇特使と新たに任命されたニコラ・モドルシュキ司教が到着し、ヤイツェの聖マリア教会でスティエパン・トマシェヴィチの戴冠式が行われた[3]。これはボスニア史上最後の戴冠式であり、また唯一ローマから送られた冠を使って挙行された戴冠式でもあった[29]。これは、父トマシュによるボスニア教会迫害とスティエパン・トマシェヴィチの精力的な対教皇政策の結果、王国がその歴史の最後の際にようやく真のカトリック国家と認められたことを示している[3]

遅ればせながらボスニア王家を聖別しようという動きもあったが、これはハンガリー王マーチャーシュ1世の厳重な反対にあった。彼は教皇がボスニア王の戴冠に関与したこと自体が、ハンガリー王の権利の侵害に当たるとみなしており、教皇にスティエパン・トマシェヴィチへの肩入れを止めるよう申し入れることまでした[29]。ピウス2世とヴィテーズ・ヤーノシュ司教がハンガリーとボスニアの間を仲裁しようとした。交渉は困難なものだったが、1462年春にようやく両者を和解させることに成功した。マーチャーシュ1世は神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世に聖イシュトヴァーンの王冠を奪われているという弱みを持っていたため、スティエパン・トマシェヴィチがその買戻しを援助することになった[30]。またハンガリー王の支持を得るために、スティエパン・トマシェヴィチは数都市をハンガリーに割譲してマーチャーシュ1世に忠誠を誓い、さらにオスマン帝国への貢納を停止しなければならなくなった[1]

オスマン帝国の侵攻

1462年春までに、メフメト2世はボスニア征服を決断した。対するスティエパン・トマシェヴィチとコサチャはキリスト教国の君主たちに援軍を求めたが、状況は絶望的だった。スティエパン・トマシェヴィチは教皇特使を常に宮廷内に留めて教皇との連絡を取り続け、できる限り多くの兵を脅かされたボスニア王国に集めようとした。また隣のラグサ共和国を通してアルバニアの支配者スカンデルベグに助けを求めた。スカンデルベグはボスニアへ援軍を派遣するため、ヴェネツィア共和国にその領土(アルバニア・ヴェネタ)内での軍勢通行を認めさせた。ヴェネツィアはボスニアを直接支援せず、スティエパン・トマシェヴィチとコサチャに自らの軍を信じるよう伝えるばかりだった。アドリア海の対岸のナポリ王フェルディナンド1世なども国内問題に集中しており、精神援助以上のことをボスニアにすることはなかった[30]

国外でできうる限りの手を打とうとするスティエパン・トマシェヴィチだったが、一方でボスニア人内でもにオスマン帝国へ反抗しようという意思が弱いことにも気づいた[31]。彼は教皇に対し、おそらく(オスマン帝国の安定した統治と対照的に)増大する搾取と終わりの見えない戦争のせいで、在地の人々がオスマン帝国に頼ろうとしている、と訴えている[32]。以前からボスニア教会の長老たちがカトリックに強制改宗させられていたことも、水面下で民衆が不満を募らせる重大な原因になっていた。同時代人の記録によれば、スティエパン・トマシェヴィチは王家への忠誠心を喚起するために惜しみなく贈り物や名誉称号をばらまき、かつての「異端」も含む信用ならない人々に対してすらも城壁都市内に暮らす権利を与えたという。しかしボスニアの防衛体制を最も揺るがしたのは、1462年春に再発したコサチャとその息子ヴラディスラヴ・ヘルツェゴヴィチの間の抗争であった。ヴラディスラヴはその年の後半にメフメト2世に助けを求め、受け入れられた[33]

マーチャーシュ1世の援軍約束や、おそらくニコラ・モドルシュキ司教の励ましもあり、気を大きくしたスティエパン・トマシェヴィチは1462年6月に軽率で致命的な過ちを犯した。ピウス2世の日記によれば、スティエパン・トマシェヴィチは「望みを見せてくれた者をあてにして」、「彼の先祖たちが長きにわたり収めてきたオスマン帝国への貢納を停止し、オスマン帝国がハンガリー人やスラヴ人を恐怖に陥れるためサヴァ川ボスナ川の合流点に建設していた都市を襲撃した」[34]。ラオニコス・ハルココンディリスによれば、スティエパン・トマシェヴィチはオスマン帝国の使節を自身の宝物庫に招き、もともとオスマン帝国に納めるために取り分けられていた金を見せたうえで、この金はオスマン帝国の侵略と戦うか、亡命の糧にするために使うつもりだ、と使節に語ったという[35][28]。メフメト2世はスティエパン・トマシェヴィチの大胆不敵な抵抗に激怒した。ピウス2世が詳しく書き記しているところによると[34]、メフメト2世がボスニアを征服しスティエパン・トマシェヴィチを破滅させるという誓いを立てたと聞いた[23][34]スティエパン・トマシェヴィチは、ニコラ・モドルシュキ司教を呼びつけ、彼がスルターンを怒らせたのだと非難した。また彼はモドルシュキに、直ちにハンガリーへ行き即効性のあるオスマン帝国対策を講じるよう命じた。しかしこの時点で、キリスト教諸国からボスニアへの援軍は一切到着していなかった[34]。マーチャーシュ1世も、スカンデルベグも、ラグサ共和国も、スティエパン・トマシェヴィチとの約束を守ることができなかったのである[23]

私は最初に嵐の到来を予期していたのです。(中略)私の父はあなたの前任者ニコラウス5世とヴェネツィア人に、コンスタンティノープルの陥落を予言していました。彼はそれを信じませんでした。(中略)今この時、私は自らについて予言いたします。もしあなたが私を信用し助けるならば、私はきっと救われるでしょう。もしそうしなかったら、私はきっと斃れ、多くの者が私と共に滅びるでしょう。
スティエパン・トマシェヴィチからピウス2世に送られた書簡の一部[36]

1463年春、メフメト2世はエディルネに15万人の軍勢を集結させ、ボスニアへ侵攻した[28]。極めて望み薄ながら、この時に至ってもスティエパン・トマシェヴィチはメフメト2世に15年の休戦を提案している。コンスタンティノヴィチによれば、オスマン側はボスニアから来た使節を騙して、和平提案が受け入れられるかもしれないという望みを抱かせたという。コンスタンティノヴィチ自身はこの場に居合わせ、なんとか使節にこの策略を伝えようとした、と主張している[23][35][28]。この使節のあと間もなく、メフメト2世の軍は侵攻を始めた[28]。ボスニア王国の要塞は瞬く間に陥落していき、スティエパン・トマシェヴィチは家族や財産と共にボボヴァチからヤイツェへ逃れた。5月19日、大宰相マフムド=パシャ・アンジェロヴィチ率いるオスマン軍がボボヴァチを包囲し、翌日メフメト2世も軍を率いて合流した[23]。アンジェロヴィチはスティエパン・トマシェヴィチの身柄を確保する任務を与えられた[37]。一方スティエパン・トマシェヴィチはボボヴァチが2年は耐えられると踏んで、ヤイツェに軍勢を集結させる計画を練った。この時に至っても、彼の計画は外国からの援軍をあてにしていた[35]。この間にスティエパン・トマシェヴィチは王妃マリアと継母カタリナに財産を託し、前者をダルマチアへ、後者をラグサへ逃した[23]

捕縛と死

スティエパン・トマシェヴィチの予想に反し、ボボヴァチは数日で陥落した。ここに至って、スティエパン・トマシェヴィチはクロアチアかダルマチアに逃げるほかに道はないと気づいた。しかしアンジェロヴィチ勢の執拗な追撃を受け、ついにクリュチで追いつかれた。伝承によれば、オスマン軍は当初この町の城壁の内側にボスニア王が潜んでいることに気づかず、要塞を通り抜けようとした。しかし現地人が金と引き換えにスティエパン・トマシェヴィチの居場所を暴露したのだという。4日間の包囲戦の間、アンジェロヴィチはスティエパン・トマシェヴィチのもとに使者を派遣し、降伏すれば危害を加えないと約束し、自由を保障する証書まで送ってきた。食料も弾薬も尽きかけていたため、スティエパン・トマシェヴィチは街の守備兵と共にアンジェロヴィチに降伏することを決めた。アンジェロヴィチは、スティエパン・トマシェヴィチとその叔父ラディヴォイ、またその子でスティエパン・トマシェヴィチの従弟にあたるトヴルトコの身柄を、ヤイツェにいるメフメト2世のもとに送った[38]

スティエパン・トマシェヴィチはメフメト2世に取り入るべく、ボスニア各地の将軍や城主に降伏を促した。その結果、一週間の間に70以上の街がオスマン軍の手に落ちた。ところがメフメト2世にはスティエパン・トマシェヴィチを助命する意思はなく、5月25日に彼を召喚した。スティエパン・トマシェヴィチはアンジェロヴィチから受け取った書類を恐る恐る持参した[38]が、メフメト2世につかえるペルシア出身の神学者アリ・アル=ビスタミが、「スルターンは知らぬうちに家来が結んだ約束には囚われない」というファトワーを出し、アンジェロヴィチの安全保証を無効化した。そしてこの老神学者は、自らのファトワーの正当性を証明するかのように、自ら剣を抜いてメフメト2世の眼前でスティエパン・トマシェヴィチを斬首した。なおメフメト2世の従者であったという年代記者ベネデット・デイは、メフメト2世が自らスティエパン・トマシェヴィチの首をはねたと記録している[39]。後の文献には、メフメト2世がスティエパン・トマシェヴィチを皮剥ぎの刑にしたとか、射撃の的にしたという説も出てくる[1]。スティエパン・トマシェヴィチやその叔父、従弟、2人の貴族の処刑が行われたヤイツェの広場は、これ以降ツァレヴォ・ポルイェ(「皇帝の広場」の意)と呼ばれるようになった[40]


  1. ^ a b c d e Ćošković 2009.
  2. ^ Ćirković 1964, p. 276.
  3. ^ a b c d Fine 2007, p. 339.
  4. ^ Fine 2007, p. 240.
  5. ^ Fine 1994, p. 578.
  6. ^ Ćirković 1964, p. 310.
  7. ^ a b Ćirković 1964, p. 317.
  8. ^ Ćirković 2004, p. 107.
  9. ^ Fine 1994, p. 572.
  10. ^ a b c d Miller & Nesbitt 1995, p. 187.
  11. ^ a b Fine 1994, p. 574.
  12. ^ 唐沢 2013, p. 116.
  13. ^ a b c d e Babinger 1992, p. 163.
  14. ^ Babinger 1992, p. 156.
  15. ^ a b c d e f Fine 1994, p. 575.
  16. ^ Ćirković 1964, p. 318.
  17. ^ Ćirković 2004, p. 108.
  18. ^ Babinger 1992, p. 164.
  19. ^ Babinger 1992, p. 163-164.
  20. ^ a b Miller & Nesbitt 1995, p. 189.
  21. ^ Fine 1994, p. 575-576.
  22. ^ Ćirković 1964, p. 323.
  23. ^ a b c d e f g h Ljubez 2009, p. 149.
  24. ^ 唐沢 2013, p. 117.
  25. ^ Bury et al. 1923, p. 149.
  26. ^ a b c Draganović 1942, p. 555.
  27. ^ a b Mandić 1978, p. 277.
  28. ^ a b c d e Miller 1923, p. 578.
  29. ^ a b c d Ćirković 1964, p. 324.
  30. ^ a b c d Ćirković 1964, p. 325.
  31. ^ Ćirković 1964, p. 326.
  32. ^ Ćirković 1964, p. 326-327.
  33. ^ Ćirković 1964, p. 327.
  34. ^ a b c d Miller & Nesbitt 1995, p. 191.
  35. ^ a b c Babinger 1992, p. 220.
  36. ^ The Commentaries of Pius II, Smith College, (1955), pp. 740–741 
  37. ^ Ćirković 1964, p. 329.
  38. ^ a b Babinger 1992, p. 221.
  39. ^ a b c Babinger 1992, p. 222.
  40. ^ a b Ljubez 2009, p. 150.
  41. ^ Ljubez 2009, p. 158.





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