スティエパン・トマシェヴィチ (ボスニア王) 結婚

スティエパン・トマシェヴィチ (ボスニア王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/15 09:03 UTC 版)

結婚

1450年代、国王スティエパン・トマシュは、子どもたちの結婚相手および同盟勢力の家にふさわしい者を精力的に探していた。2人の娘は1451年に嫁いでいき、1453年にはスティエパン・トマシェヴィチの結婚相手探しも始まった。まずトマシュ王は、ハンガリー王の代理のバンとして中央クロアチアを治めていたペタル・タロヴァツの自由所有地を狙い、その未亡人ヘドウィグ・ガライをスティエパン・トマシェヴィチと結婚させようとした。コサチャもこの裕福な未亡人との再婚を目論見、トマシュ王とコサチャは軍事衝突するに至ったが、結局タロヴァツの後継者たちの代理としてヴェネツィア共和国が介入し、両者とも利を得ることはできなかった[6]

スティエパン・トマシェヴィチが初めて名指しで文献に現れるのは1455年4月30日、教皇カリストゥス3世がボスニア王とその息子を自らの保護下に置くという布告を出した時である[1]。トマシュ王の野望は膨らみ、スティエパン・トマシェヴィチを西欧諸国と密接な関係を築くために利用しようとした。1456年、彼は教皇に、スティエパン・トマシェヴィチの結婚相手となる王家の娘を紹介してくれるよう求めた。まもなくミラノ公フランチェスコ・スフォルツァの庶出の娘とスティエパン・トマシェヴィチの結婚交渉が始まったが、トマシュ王はより高い望みを息子にかけていた[7]

1458年1月、セルビア専制公国で専制公ラザル・ブランコヴィチが死去し、空位時代に入った。ルメリアのベイレルベイの兄弟でもあった大貴族ミハイロ・アンジェロヴィチ英語版がオスマン帝国の支援を受けてセルビア専制公を名乗ったが、このクーデターはスメデレヴォの住民に阻まれた[8]。ラザル・ブランコヴィチには3人の娘がいたが息子はいなかったため、かつて盲目にされた弟のステファン・ブランコヴィチと未亡人エレニ・パレオロギナが共同で統治を引き継ぐことになった。ボスニアのトマシュは、この弱みに付け込み、かつて1445年にセルビアに奪われていた東ボスニアの諸都市を取り返そうとした。間もなく彼は、エレニ・パレオロギナとの間で和平交渉を始めた[9]。そして彼は息子とミラノ公の娘の結婚工作を放棄し、代わりに息子をラザルとエレニの11歳の長女イェレナと結婚させる、ということでエレニと合意した[10]。スティエパン・トマシェヴィチにとっては、この結婚はビザンツ皇族の末裔と血縁関係を築けるばかりでなく、セルビア専制公国が彼自身のもとに転がり込んでくるという点で非常に名誉あることであった[11][7]

ハンガリー王マーチャーシュ1世も、1459年1月にスティエパン・トマシェヴィチとイェレナの婚約に同意し、スメデレヴォへの入城を承認した。ここに、史上初のボスニア=セルビア国家連合が成立した[12]。ハンガリー王にとって、オスマン帝国との間にあるボスニアとセルビアが、自身に従属する立場にあるスティエパン・トマシェヴィチのもとで統一され強力な緩衝地帯が形成されることは非常な利益をもたらすことであった[11][13]。1459年1月、ハンガリー議会はスティエパン・トマシェヴィチのセルビアに対する権利を認めた[14]


  1. ^ a b c d e Ćošković 2009.
  2. ^ Ćirković 1964, p. 276.
  3. ^ a b c d Fine 2007, p. 339.
  4. ^ Fine 2007, p. 240.
  5. ^ Fine 1994, p. 578.
  6. ^ Ćirković 1964, p. 310.
  7. ^ a b Ćirković 1964, p. 317.
  8. ^ Ćirković 2004, p. 107.
  9. ^ Fine 1994, p. 572.
  10. ^ a b c d Miller & Nesbitt 1995, p. 187.
  11. ^ a b Fine 1994, p. 574.
  12. ^ 唐沢 2013, p. 116.
  13. ^ a b c d e Babinger 1992, p. 163.
  14. ^ Babinger 1992, p. 156.
  15. ^ a b c d e f Fine 1994, p. 575.
  16. ^ Ćirković 1964, p. 318.
  17. ^ Ćirković 2004, p. 108.
  18. ^ Babinger 1992, p. 164.
  19. ^ Babinger 1992, p. 163-164.
  20. ^ a b Miller & Nesbitt 1995, p. 189.
  21. ^ Fine 1994, p. 575-576.
  22. ^ Ćirković 1964, p. 323.
  23. ^ a b c d e f g h Ljubez 2009, p. 149.
  24. ^ 唐沢 2013, p. 117.
  25. ^ Bury et al. 1923, p. 149.
  26. ^ a b c Draganović 1942, p. 555.
  27. ^ a b Mandić 1978, p. 277.
  28. ^ a b c d e Miller 1923, p. 578.
  29. ^ a b c d Ćirković 1964, p. 324.
  30. ^ a b c d Ćirković 1964, p. 325.
  31. ^ Ćirković 1964, p. 326.
  32. ^ Ćirković 1964, p. 326-327.
  33. ^ Ćirković 1964, p. 327.
  34. ^ a b c d Miller & Nesbitt 1995, p. 191.
  35. ^ a b c Babinger 1992, p. 220.
  36. ^ The Commentaries of Pius II, Smith College, (1955), pp. 740–741 
  37. ^ Ćirković 1964, p. 329.
  38. ^ a b Babinger 1992, p. 221.
  39. ^ a b c Babinger 1992, p. 222.
  40. ^ a b Ljubez 2009, p. 150.
  41. ^ Ljubez 2009, p. 158.





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