ゴーストップ事件 事件の影響

ゴーストップ事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/15 05:38 UTC 版)

事件の影響

結局この事件は軍と警察の面子の張り合いにすぎなかったが、解決を一番喜んだのは師団長の寺内だという。

陸海軍軍法会議法によれば一般の警察官も現役軍人の犯罪行為を告発する義務があり(296条)あるいは司法警察官の手により調書を作成する(299条)ことができたが、この規定は憲兵組織を保有しない海軍に譲歩した制定経緯があり、明治の憲兵制度創設以来、軍兵の犯罪に関する司法取締りは勤務時・非番時を問わず本来は憲兵が行うものと解釈されていた[3]

この事件を契機に現役軍人に対する行政行為は警察ではなく憲兵が行うことがあらためて意識されることとなり、満州事変後の世情に憲兵や軍部組織の統帥権と国体の問題を改めて印象付けることとなった。

遠因、関連する事件

軍と警察の争いは明治時代からたびたび起きていた[4]。その原因は、邏卒(巡査)と兵卒の構成によるものではないかと言われている。また兵卒は軍隊の威力を背景に邏卒に対抗したためといわれている[4]。また、巡査は文官としての一つに分類されたが、兵卒は徴兵令(のち兵役法)に従って国民の義務として兵役に服している者ともされていることとあって、官吏というわけではなかった。軍人のうち下士官士官武官であり、警察官は文官である。巡査は判任待遇を受けていた下級文官でもあった。

1881年(明治14年)に陸軍(長州)が憲兵制度を創設した目的の一つは、警視庁薩摩閥)を牽制するためであったといわれる[5]

大阪においては1884年(明治17年)1月4日西区松島遊廓で陸軍兵士と警察官の乱闘が発生し、死者が出ている(松島事件)。


注釈

  1. ^ 後に防衛事務次官となる今井久も、大阪府警察部警務課長として粟屋を支えた[1]
  2. ^ 後藤文夫清水重夫など。
  3. ^ 戸田巡査は婿養子に入っており、戸籍上は中西姓であった。
  4. ^ 内務省法令が他省庁の法令と競合し問題を起こす例は他にもあった。たとえば電柱の設置につき電信電話の道路占用に関する優遇措置法令があった逓信省は、道路行政をになう内務省としばしば対立し、この問題は1936年および1942年の内務逓信両省協定まで解消されることはなかった

出典

  1. ^ 読売新聞2011年8月27日
  2. ^ (参考)「日本における道路交通法規の変遷」[1]
  3. ^ 「旧陸海軍軍法会議法の制定経緯」山本政雄(防衛研究所紀要 第9巻第2号(2006年12月))[2][3]P.60、PDF-P.16
  4. ^ a b 『警視庁史 明治編』、警視庁史編さん委員会(1959年)、69頁
  5. ^ 『警視庁史 明治編』、警視庁史編さん委員会(1959年)、165-167頁


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