ウィーン川 歴史

ウィーン川

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/08 15:43 UTC 版)

歴史

およそ1100年頃から、ウィーン川の岸辺には小規模な水車小屋経営者が数多く住み着き始めた。その所有者・経営者としてはフォルンバッハ伯 (Grafen von Forrnbach) が関わっていた。水車にはぶどう畑と居酒屋が併設されていることが多く、水車(木製)の周囲には修復・改修の需要を当て込んで木材加工業者も住み着いていた。ウィーン川には水車用に人工の小川も作られていた。

河川の改修工事は1713年と1781年に行われているが(シェーンブルン宮殿庭園建築家のヨハン・ヴィルヘルム・バイヤーによるプロジェクト)、当時実行できたのは、罪人を労働力に使った河床の浚渫工事と、岸辺に柳やアカシアを植える、といった程度に過ぎなかった。

1860年、河川の一部を地下化し、岸壁の両側に交通路(鉄道)を整備する計画(数学者ヨーゼフ・マクシミリアン・ペッツヴァルによる)が発表され、最初は採用に至らなかったが、1862年に壊滅的な洪水被害が起きると、国(オーストリア帝国)・ニーダーエーステライヒ州・ウィーン市の三者の間でこの計画の採用を大筋で認めることとなった。ただし、ドナウ川とドナウ運河の改修工事と抱き合わせての計画立案となったため[6]、ウィーン川の改修工事は後回しにされ、1875年にはドナウ川の工事が完成していたにもかかわらず、ウィーン川にとりかかったのは1890年代に入ってからであった。

環境

河川の制御と改修工事

当初、ウィーン川に船舶の航行を可能にしようという案もあった。これは二人の若き技術者、アツィンガーとグラーヴェによるもので、1874年に著書の中でプロジェクトとして公表されていた[7]。それによれば、6つの貯水池を作って船舶の通航に十分な流量を維持しようとするもので、深さ1.9m、幅28.4mの「ウィーン船舶運河」(Wien-Schiffahrts-Canal)に作り変え、スクリュー船での航行を見込み、人員(旅客)は乗せずに建築資材の運搬が想定されていたが、その後、このプロジェクトはそれ以上熟したものとはならなかった[8]

専門家委員会による1882年の現状に関する報告書は次のように報告している[9]

「ウィーン川が、プルカースドルフ市からウィーン市の手前まで、あらゆる種類の排水がたまる下水溝と化し、ウィーン市に入ってからはもはや川の水とは呼べず、動物性・植物性のゴミ廃棄物が滞留する下肥状態になっている、という苦情が方々から寄せられている現状は、全くもって根拠のあることである。(・・・)とりわけ水質の腐敗と岸壁の汚染の最大の原因となっているのは、発酵工場や染色工場、化学工場やヒュッテルドルフ地区の醸造所などである」。

当時、全長17kmの流域(ウィーン市内の分)に対して設定されたウィーン川制御法規は今日もなお効力を有している。これは1892年にオーストリア帝国議会(ハンガリー王冠領を除いたツィスライタニエンの議会)で制定された「ウィーンの公共交通設備の整備に関する法律」(Gesetz über die Ausführung öffentlicher Verkehrsanlagen in Wien)で[10]、帝王室商業大臣(k.k.Handelsminister)直属の「ウィーン交通設備委員会」(Kommission für Verkehrsanlagen in Wien)の管轄下で施行された。委員会は財源として必要な国債を以後90年間を上限に発行できる権限を有していた。

1500万グルデン(2016年現在の貨幣価値に換算して2億ユーロ)の予算が提示され、国・ニーダーエーステライヒ州[11]・ウィーン市の三者で500万グルデンずつ分担することが決定された。上記の法律に付随する詳細な計画書では、川の流量を最大で毎秒600m³とすることが求められ(計画書の中心に据えられたのはウィーン市営鉄道の新設計画だった)、1894年、委員会からウィーン市建築局へ工事の施工が委託された[12]

洪水対策として、ウィーンの森にせき止め湖の「ウィーンの森湖」(Wienerwaldsee)が、ウィーン市西部のアウホーフ地区に川の排水制御用の貯水池がそれぞれ設置された。その後、時代が移って河畔の自然再生の動きが出てきた現在では、こうした湖や貯水池は、既にある豊かな湿地生態系として見直されている。

ウィーン川はウィーン市内ではほぼ全面的にコンクリート護岸となっている。これは壊滅的な被害を伴う洪水対策として1895年から1899年の期間に整備されたものである。護岸のコンクリート化と並行してウィーン市営鉄道(シュタットバーン)のウィーンタール線(ウィーン川渓谷線)の建設工事が進められた。この路線はヒュッテルドルフ・ハッキング(13区・14区)間のツッファー橋(Zufferbrücke)(13区・14区)から市立公園脇のJohannesgasse(1区・3区)までのウィーン川右岸(南側)を通り、川とは壁を隔てて区切られ、両岸の地表面よりも低く掘り下げた深さに線路が敷設された。

市営鉄道の建設工事に建築芸術の面から関わったオットー・ワーグナーは、シェーンブルン宮殿(13区)からカールスプラッツ広場(1区・4区)までの区間に蓋をして暗渠化し、蓋の上の空間に豪華通り(ウィーンツァイレ通り)を新設する計画を熱心に提案したが、実際に暗渠化が実現したのはピルグラム橋(Pilgrambrücke)より下流の2.8㎞の区間に留まった。

都市の下水対策として、護岸化された川の両岸には集積排水管、通称「コレラ排水管」が作られたが(ウィーン川右岸集積排水管とウィーン川左岸集積排水管の2本)、川の本体へ漏水が起きており、強雨時には特に酷い状況になっていたため、その対策として、1997-2001年と2003-2006年にウィーン川渓谷排水管(Wiental-Kanal)が増設された。これは全長3.5㎞の配管をウィーン川の河床の地下に通すもので、ピルグラム通り近くのエルンスト・アルノルト公園(5区)でウィーン川右岸集積排水管から分岐し、河口のビル「ウラニア」脇で右岸主要集積排水管・補強排水管(2000年完成)に合流している。この排水管は貯水槽としての機能もあり、最大で11万m³の貯水能力がある。この工事の最大の難所はカールスプラッツ広場で地下鉄U1線と交差する地点で、地下鉄の立坑のわずか3メートル下に排水管が通っている[13]

護岸化された川に高架を設けて都市高速道路網を整備する構想も、過去にはたびたび議論されてきた。都市高速道路構想は1960年代に活発に議論が取り行われたが、市長フェリックス・スラヴィークの1972年9月2日の基本方針演説により議論に終止符が打たれた。

ウィーン川遊歩道

20世紀後半には、川のコンクリート護岸を歩行者や自転車に開放する構想も上がっていたが、頻繁な水位変化がネックとなり、2010年までに実現したのはアウホーフとケネディ橋の間の約7㎞の区間のみで、左岸(北側)に警告表示とランプが設置された。

政治レベルの紛らわしい広報が影響して「ウィーン川ハイウェイ」(自転車用)と誤解されたこともあったが、実態は自転車用の高速走行路ではなく、歩行者・自転車の利用と子供の遊び場所を想定した遊歩道である[14]。自転車用の走行路があるのは護岸ではなく、道路レベルに設けられており、川に沿って自転車で走ることができる。

将来像

従来、ウィーン川渓谷の用途は交通(鉄道や道路)での利用がメインであるため、行楽の比重は小さなものにとどまっている。そこで、2005年のウィーン市開発計画では、ウィーン川渓谷に現状以上に手を付けないこと、既存の人工設備には行楽での利用価値を追加していくことが努力目標として示され、シェーンブルン宮殿脇の流域を新たに整備することが特に明記されている。

2013年10月、ブロイハウス橋・ハルタ―バッハ合流地点とニコライ道(Nikolaisteg)の間で自然再生の試みがスタートした。ここでは、旧来の洪水対策に加え、河川の水域に行楽面の価値を付加して活用しようという姿勢が前面に出ている。淡水の動植物が戻って定着することも期待され、2014年3月、工事は計画通り完了した[15]

名所

13区(ヒーツィング)と12区(マイトリング)の境界付近のウィーン川沿いにシェーンブルン宮殿がある。そこから下流へ進むと、6区(マリアヒルフ)のナッシュマルクト(野外市場)とアン・デア・ウィーン劇場があり、同じ6区では、ウィーン川の改修工事の完成後にオットー・ワーグナーがウィーン川沿いの通り(ヴィーン・ツァイレ)にユーゲントシュティル様式の豪華奢侈な通りを作ろうと夢見た構想の名残がその建築群に見られる。

この他に、ウィーン川沿いには、オットー・ワーグナーの設計による鉄道駅舎もいくつかあり、当初は蒸気市街電車に使われ、後にウィーン電気市営鉄道(Wiener Elektrische Stadtbahn)のウィーンタール線(ウィーン川渓谷線)で1981年まで使用されたものである。鉄道の副産物の形でできたものに、数キロに及ぶオットー・ワーグナー欄干があり、現在も多数見ることができる。この他、ワーグナーと同時代の建物に、ヨジェ・プレチュニック(5区のランガー賃貸住宅)やオスカー・マルモレクの建築(5区のリューディガーホーフ)がある。ウィーン市立公園(1区、3区)にはウィーン川がドナウ運河に注ぐ直前の流路が通っており、市街地の中でも貴重な緑の憩いの場となっている。ドナウ運河への合流地点の手前には、旧ウィーン市民劇場(3区)、応用芸術博物館(1区)、応用芸術大学(1区)、歴史的建築である中央税関(3区)、帝王室軍事省(1区)、天文台などが入るウラニア(1区)がある。


  1. ^ BMLFUW (Hrsg.): Flächenverzeichnis der Flussgebiete: Donaugebiet von der Enns bis zur Leitha. In: Beiträge zur Hydrografie Österreichs Heft 62, Wien 2014, S. 112. PDF-Download, abgerufen am 8. Juli 2018.
  2. ^ Wienfluss, Abflussregime im Wien Geschichte Wiki der Stadt Wien
  3. ^ Thomas Ofenböck: Die Umsetzung des Nationalen Gewässerbewirtschaftungsplans in Wien. (Memento vom 21. Juli 2015 im Internet Archive). In: Magistrat Wien, MA 45 – Wiener Gewässer, 28. Februar 2013, Präsentationsfolien, (PDF; 9,7 MB), Folie/Seite 14.
  4. ^ Wienfluss-Hochwasserschutz. In: Stadt Wien, Wiener Gewässer (Magistratsabteilung 45), aufgerufen am 18. März 2018.
  5. ^ wien.gv.at: Verlauf und Einzugsgebiet des Wienflusses
  6. ^ Hans K.Kaiser: Josef Petzval – zum 110. Todestag. In: Internationale Mathematische Nachrichten, Dezember 2001, S. 9–19, zum Wienfluss: S. 12f., aufgerufen am 17. März 2018.
  7. ^ Franz Atzinger, Heinrich Grave: Geschichte und Verhältnisse des Wien-Flusses sowie Anträge für dessen Nutzbarmachung mit Rücksichtnahme auf die jetzigen allgemeinen und localen Anforderungen. Beck’sche Universitäts-Buchhandlung, Wien 1874 (archive.org [abgerufen am 20. Februar 2016] „Auf Veranlassung des Concessionärs Franz Zaillner von Zaillenthall“, online von Google Bücher).
  8. ^ Beppo Beyerl: Der Naschmarkt – Schiff ahoi bei der Stubenbrücke. In: wienernaschmarkt.eu, o. J.
  9. ^ Bericht der vom Gemeinderathe der Stadt Wien berufenen Experten über die Wienfluß-Regulierung im August 1882. Gemeinderats-Präsidium, Wien 1882, 5. Die sanitären Verhältnisse des Wienflusses, S. 41 (n47 – Internet Archive [abgerufen am 21. Februar 2016]).
  10. ^ RGBl. Nr. 109 / 1892 (= S. 621 ff.)
  11. ^ LGBl. Nr. 42 / 1892 (= S. 85)
  12. ^ Erich Dimitz: Die Mühlen, die Brücken, das Trinkwasser und die Regulierung des Wienflusses in Mariahilf. In: Bezirksmuseum Mariahilf, mit detaillierten Angaben und vielen Illustrationen, (PDF-Datei; 42 S., 3,8 MB).
  13. ^ Karl Wögerer: Sima: Wiental Kanal ist Meilenstein für den Gewässerschutz. In: Stadt Wien, 29. August 2006, mit Angaben der technischen Daten.
  14. ^ Thomas Rottenberg: Wiental-Radweg: Ein Radweg, der gar keiner ist. In: Der Standard, Wien, 19. Juli 2013 und Druckausgabe vom 20./21. Juli 2013, S. 9.
  15. ^ Naturnaher Wienfluss: Teilstück fertig. In: wien.orf.at. 22. März 2014, abgerufen am 17. März 2018.





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