Nō-himeとは? わかりやすく解説

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濃姫

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/14 09:39 UTC 版)

濃姫(のうひめ / のひめ[注釈 1])は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。通説では、美濃戦国大名である斎藤道三(長井秀龍)の娘[注釈 7]で、政略結婚で尾張の戦国大名の織田信長に嫁ぎ[注釈 8]、信長の正室になったとされる[注釈 9]が、後述するように名前や呼称は確かではない。ここでは便宜上、濃姫として記述する。


注釈

  1. ^ a b 濃姫の称の出典である『絵本太閤記』『武将感状記』の振り仮名では「の ひめ」と書かれている[5][6]
  2. ^ 前述のように濃姫が信長に嫁ぐ前に頼純の正室となっていたとする説がある[2]
  3. ^ a b 滋賀県米原市柏原に現存する。
  4. ^ 『近江国輿地志』にある成菩提院[注釈 3]で出産した信長の御台所を濃姫と仮定する説がある[3]
  5. ^ [説2]は『濃陽諸士伝記』による[4]
  6. ^ a b 濃姫の生年が天文4年であるならば、光秀は従兄であるべきだが、『美濃国諸旧記』では光秀を濃姫の「従弟」と書いており、通説とは異なり、光秀をだいぶ若く見積もっていたようである。
  7. ^ 『美濃国諸旧記』では秀龍の娘。
  8. ^ a b c d 『信長公記』には道三の「息女」とあるだけで、名前も婚儀の時期も記されていない[8]
  9. ^ 信長の正室が誰かをはっきりと示すような一次史料は存在しない。『美濃国諸旧記』に「上総介信長の北の方(正室)とぞ相なりぬ」という記述がある[7]
  10. ^ 「帰」と「胡」の崩し字は形が酷似しているために誤読されやすく、帰蝶という存在しない造語よりも胡蝶という普通名詞の方が人名として自然であるため、『美濃国諸旧記』の伝える帰蝶の名は胡蝶の誤写ないし誤読だったという説がある。『国史叢書』編纂の過程で黒川真道が所蔵していたと思われる『美濃国諸旧記』は原本の所在が不明となっており、翻刻史料のみが知られているために誤謬の訂正ができなくなっているという。また同史料には織田信秀の法名・桃巌を「排岩」と誤記している箇所がある。「桃」と「排」の崩し字の形も酷似していて誤読されやすい[11]
  11. ^ 通説では嫁いだ頃には信長は那古屋城に移っていたはずであるが、『美濃国諸旧記』の記述による。
  12. ^ 於はと同じ、敬語を作る接頭辞である。通常、「於濃の方」とさらに接尾にも言葉が足されて用いられる。
  13. ^ 諸系図により異なるが、『系図纂要』では光秀は光綱の子とされ[14]、『明智氏一族宮城家相伝系図書』では、光綱の娘の子(つまり外孫)で養嗣子となっている[15]が、いずれの場合も小見の方は叔母にあたる。
  14. ^ a b 『江濃記』では土岐頼芸の決起が11月17日とあり、道三による大桑城落城が次の行にあるので、落城も11月以降[18]
  15. ^ 両名の名は『信長公記』にも見られるが、後者は人物不詳。道空については比定が難しい。
  16. ^ これによれば、濃姫は信忠の養母となり、正式に織田家後継者として信長に認められた。それと同時に濃姫の実弟である斎藤利治も信長から信忠付き側近の重臣となっている。兄の斎藤利堯も利治と同じく、加治田城留守居と共に信忠重臣として岐阜城留守居の役を担っている。
  17. ^ 平成28年2月19日、岐阜城の御殿(信長居館)跡から金箔瓦が見つかったと岐阜市が発表した。宣教師ルイス・フロイスの『日本史』には「池のほとりには、金の瓦のある豪華な建物があり、金華山を背にして建っていた」との記述があり、その金箔瓦の豪華な建物は、1階が迎賓の間、2階が信長の正室の住まいであったと説明した。滋賀県立大の中井均教授は「信長が濃姫のために計画を変えてまでも御殿を建てたのでは」と話した。かつて奈良大学千田嘉博教授は岐阜市がこの山麓館跡を「濃姫のために造営した御殿」としたことに疑問を呈し、「信長と妻子は普段、麓の御殿ではなく、山頂に住んでいたことが、当時の文献資料で明らかに」なっているので検証が必要と反論を延べていた[26]
  18. ^ 『美濃国諸旧記』『濃陽諸士伝記』『絵本太閤記』『武将感状記』『明智軍記』『武功夜話』など、濃姫の話の登場する主な書籍は尽く史料とは言い難い読本の類で、名前も存在も何一つが確かではない。
  19. ^ a b 永姫には生母が濃姫であるという説がある。
  20. ^ 話の内容からすると永禄4年(1561年)から同6年(1563年)の間と思われる。
  21. ^ 義龍に娘がいたという記録はないが、道三を討ち取ったことで知られる小牧源太(道家)の家で預かられていたという[28]
  22. ^ ただし看板には「濃姫之墓」とある。また、石碑は寛文5年乙巳(1665年)との銘があり、江戸時代のものである。
  23. ^ 信長が斎藤義竜の後家が所持していた、壷(茶器)を差し出すよう何度も催促したが、後家は岐阜落城の折(永禄10年)に紛失したと主張して「これ以上私を責めるならば自害する」と信長に抗議したとき、「信長本妻」が「兄弟女子十六人自害なすべし」と同調したとされる話[30]。近江の方の親族である「信長本妻」とは濃姫をさすと考えられる。
  24. ^ 本来は「天正記」の一部である漢文の『惟任退治記』を仮名交り文に改めたもの。
  25. ^ 最古の元版は1693年版。
  26. ^ 「内室」は他人の正室を敬っていう言葉で、信長には正室として認知されている人物は濃姫しかいないので、濃姫のことをさすと推定される。
  27. ^ 信長の御台所が安産した後で、ある時に護摩堂から失火したが、深砂王と慈恵大師の掛け軸が飛んできて、柿木の掛かり、ここで火が鎮火した。以来、人々はこの掛け軸に安産を祈願し、柿木を切り刻んでお守りとして持ち帰るようになったという内容[3]
  28. ^ 9頁の記述。『泰巌相公縁会名簿』は寛延3年(1751年)以後、同寺で編纂されたもの。
  29. ^ a b 西ヶ谷恭弘『考証織田信長事典』では岡田正人の調査によって発表された内容が「慶長17年7月5日」であったと書いてある[37]が、岡田正人の著作『織田信長総合辞典』では「慶長17年7月9日」と書いてある[38]
  30. ^ 当初は沢尻エリカがキャスティングされていたが、撮影開始後に諸事情から降板となり、配役が変更された。
  31. ^ 幼少期の濃姫は、主人公・織田信長役である市川海老蔵の長女である市川ぼたんが演じている。

出典

  1. ^ a b c d e 黒川真道 1915, p. 41.
  2. ^ a b c d e f g 川口素生「Q30 信長の正室・濃姫をめぐる秘密と謎とは?」『山内一豊と妻千代101の謎』PHP研究所、2005年。ISBN 4569664652 
  3. ^ a b c 寒川 1915, p. 244.
  4. ^ 黒川真道 1915, pp. 404–405.
  5. ^ a b c 岡田玉山『国立国会図書館デジタルコレクション 絵本太閤記. 初編 巻1,2』東京同益出版社、1882年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/878011/57 国立国会図書館デジタルコレクション 
  6. ^ a b c 博文館編輯局 編『国立国会図書館デジタルコレクション 武将感状記』博文館、1941年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1109790/71 国立国会図書館デジタルコレクション 
  7. ^ a b c d e 黒川真道 1915, p. 54.
  8. ^ a b 近藤瓶城 1926, p. 13.
  9. ^ a b c d 桑田忠親 1973, p. 111.
  10. ^ 西ヶ谷 2000, p. 239.
  11. ^ 松浦 2014, pp. (29)-(31).
  12. ^ a b 西ヶ谷 2000, p. 241.
  13. ^ 黒川真道 1915, p. 42.
  14. ^ 東京大学史料編纂所 編「国立国会図書館デジタルコレクション 系図纂要」『大日本史料. 第11編之1』東京大学、1927年、519-522頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3450624/290 国立国会図書館デジタルコレクション 
  15. ^ 東京大学史料編纂所 編「国立国会図書館デジタルコレクション 明智氏一族宮城家相伝系図書」『大日本史料. 第11編之1』東京大学、1927年、517-519頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3450624/288 国立国会図書館デジタルコレクション 
  16. ^ 黒川真道 1915, p. 49.
  17. ^ 黒川真道 1915, pp. 49–50.
  18. ^ 塙保己一 1893, p. 141.
  19. ^ 黒川真道 1915, pp. 50–53.
  20. ^ 太田 & 中川 2013, p. 25.
  21. ^ 太田 & 中川 2013, p. 27.
  22. ^ 太田 & 中川 2013, pp. 33–35.
  23. ^ 塙保己一 1893, p. 143.
  24. ^ 滝澤 2015, p. 9.
  25. ^ 『総見記』23、先君御家督定事
  26. ^ “信長、妻の濃姫に金箔御殿? 岐阜の公居館跡で瓦の破片”. 日本経済新聞. (2016年2月20日). オリジナルの2018年9月27日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180927165248/https://www.nikkei.com/article/DGXLZO97505410Q6A220C1000000/ 2018年9月27日閲覧。 “10年をかけた岐阜城信長居館の発掘調査、ついに終了”. 中日新聞. (2017年12月13日). オリジナルの2018年9月28日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180928044008/http://chuplus.jp/blog/article/detail.php?comment_id=7177&comment_sub_id=0&category_id=233 2018年9月27日閲覧。 “信長像浮かぶ発掘成果 2016年回顧と展望(上)”. 読売新聞. (2016年12月11日). オリジナルの2018年9月28日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180928044033/https://www.yomiuri.co.jp/chubu/feature/CO022951/20161212-OYTAT50035.html 2018年9月27日閲覧。 
  27. ^ 桑田忠親 1973, p. 113.
  28. ^ a b 黒川真道 1915, p. 412.
  29. ^ 岡田 1999, p. 397.
  30. ^ 織田信長と岐阜 13.信長の正室・濃姫”. 岐阜観光コンベンション協会 (2007年11月13日). 2008年5月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年6月1日閲覧。
  31. ^ 岡田 1999, pp. 158–159.
  32. ^ 黒川真道 1911, p. 51-52.
  33. ^ 岡田 1999, p. 159.
  34. ^ 西ヶ谷 2000, pp. 241–242.
  35. ^ 川上孤山『国立国会図書館デジタルコレクション 妙心寺史』 上、妙心寺派教務本所、1917年、271頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/926992/151 国立国会図書館デジタルコレクション 
  36. ^ 岡田 1999, pp. 159–160.
  37. ^ a b 西ヶ谷 2000, pp. 240–241.
  38. ^ 岡田 1999, pp. 397–398.
  39. ^ a b 岡田正人「信長の正室、帰蝶(濃姫)の生存を検証する」『歴史読本』37巻5号、1992年。 
  40. ^ 西ヶ谷 2000, p. 245.
  41. ^ 岡田 1999, p. 162.
  42. ^ 永田恭教「濃 織田信長・室―謎に包まれた生涯を解明する―」『歴史読本』59巻3号、2014年。 





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