アルベルト・ベッカー (作曲家)とは? わかりやすく解説

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アルベルト・ベッカー (作曲家)

(Albert Becker (composer) から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/09 14:22 UTC 版)

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アルベルト・ベッカー
Albert Becker
基本情報
生誕 1834年6月13日
プロイセン王国 クヴェードリンブルク
死没 (1889-01-10) 1889年1月10日(54歳没)
プロイセン王国 ベルリン
ジャンル クラシック
職業 作曲家

アルベルト・エルンスト・アントン・ベッカー(Albert Ernst Anton Becker 1834年6月13日 - 1889年1月10日)は、ドイツロマン派作曲家

生涯

クヴェードリンブルクに生を受け、ブライト・シュトラーセ20という住所で幼少期を過ごした[1]。1853年から1856年にかけてベルリンにてジークフリート・デーンの下で作曲を学び、1854年にはベルリン・ジングアカデミーに加入している。

1861年にベッカーの交響曲 ト短調がウィーン楽友協会後援の交響曲作曲コンクールにおいて、32曲の応募作品の中から2位に選ばれたものの成功には至らなかった[注 1]エドゥアルト・ハンスリックは次のような寸評を寄せている。「この作品には独自性、創造力、際立った個性が欠落している。賞賛すべきは通俗を避けた気品のある方向性、巧みな芸術技法の使用、労を惜しまない細部の磨き上げである[2]。」出世作となるとともに後に名声をとどろかせたのは、カール・リーデルがライプツィヒで創設、運営していた合唱団の創設25周年にあたる1878年に委嘱された『大ミサ曲』 変ロ短調であった。

1879年、エルンスト・フリードリヒ・リヒターの後任としてライプツィヒのトーマスカントルに応募するが、ヴィルヘルム・ルストに敗れる。

1884年からベルリン芸術アカデミーにて教授、作曲の講師を受け持ち、同校の役員となる。最も著名な門弟は1889年から1890年にかけて対位法を教えたジャン・シベリウスである。またドイツの作曲家パウル・グレーナーもベッカー門下である。

1889年にルドルフ・フォン・ヘルツベルクの後を継いでベルリンの大聖堂合唱団ドイツ語版の指揮者に就任した。1892年にルストの死去に伴いベッカーがトーマスカントルの職に就けることになり、彼自身も何よりもこの栄誉に与りたいと望んだ。ところが、皇帝ヴィルヘルム2世はベッカーの離職の希望を受け入れず、代わりに給料を増額してメダルを授与したのである。

ベッカーの祖父にはSt. Aegidii教会で牧師を務めた文献学者のアルベルト・ゲルハルト・ベッカー(1770年–1843年)がいる。また、作曲家のギュンター・ラファエルは彼の孫にあたる。

褒章

主要作品

ビーバー写真スタジオBieberで撮影されたポートレート 1895年頃
  • プレリュードとフーガ ニ短調 作品9
  • 大ミサ曲 変ロ短調 作品16 (1878年)
  • プレリュードとフーガ イ短調 作品21
  • 宗教改革カンタータ 作品28 (1883年)
  • フーガ 作品31
  • 3つの神聖なリート 作品36
  • Salvum fac regem 作品45
  • 教会暦のための礼拝用歌曲 作品46
  • 幻想曲とフーガ 作品52
  • 3つのフーガ 作品54
  • 待降節主礼拝のための礼拝曲 作品57
  • 聖歌隊のための礼拝用歌曲 作品59
  • 教会オラトリオ『慈悲の祝福』(Selig aus Gnade) 作品61 (1890年)
  • 『深き淵よりわれ汝を呼ぶ』 作品62
  • 2つのコラールモテット 作品63
  • 3つの神聖なリート 作品64
  • 宗教改革モテット 作品65
  • 3つのコラールモテット 作品67
  • 『神よ、お助けください』(Hilf mir, Gott!) 作品68
  • Weihegesang 作品74
  • 詩篇第84篇 作品79
  • 4つの詩篇 作品83
  • 『十字架上のキリストの7つの言葉』 作品85-4
  • 『クリストキントと子どもとの対話』(Zwiegespräch der Kinder mit dem Christkinde) 作品88
  • 皇帝リート 作品89
  • 『目を上げて望め』(Hebe deine Augen auf und siehe) オルガン伴奏付きの児童合唱、混声合唱とソプラノ、アルト独唱のためのカンタータ 作品92a

脚注

注釈

  1. ^ このコンクールで1位を獲得したのはヨアヒム・ラフ交響曲第1番だった。

出典

  1. ^ Einwohnerverzeichnis Quedlinburgs von 1849
  2. ^ Eduard Handlick: Aus dem Concertsaal, Wien 1870, S. 281

参考文献

外部リンク




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