飯豊王女
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 14:52 UTC 版)
飯豊王は2人いたという説がある。つまり系譜上での「履中天皇皇女説」と「市辺押歯王王女説」はどちらも正しく、履中皇女と履中皇孫は別人で、両者は叔母と姪の関係であったという説である。門脇禎二の説と若井敏明の説とがある。両説のちがいは、門脇説では叔母の方は青海郎女、姪の方は忍海郎女・忍海部女王であり、ともに同じ「飯豊」という別名を与えられている(「青海」がつく方が叔母(皇女)で、「忍海」がつく方が姪(王女))。これに対し若井説では、叔母(皇女)の方は「青海」「忍海」であり忍海部や飯豊ではなく、姪(王女)の方は「忍海部」または「飯豊青」であり忍海や青海ではない(「忍海」の2字が共有されているが、叔母は「部」の字がつかず、姪の方は「部」の字がつく)とする。このように同じ2人説でも、その2人の名前のちがいをどう考えるかは説が分かれている(叔母が「青海郎女」で姪が「忍海部女王」であることは両者共通、「飯豊」と「忍海」について見解が分かれる)。
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