韓皐
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韓 皋(かん こう、746年 - 824年)は、唐代の官僚・政治家。字は仲聞[1][2]。本貫は京兆府長安県[3][4]。
経歴
韓滉の子として生まれた。雲陽県尉から賢良科に抜擢され、右拾遺に任じられた。左補闕に転じ、起居郎・考功員外郎に累進した。貞元3年(787年)、父が死去すると、韓皋は辞職して喪に服した。喪が明けると、韓皋は知制誥となった。中書舎人・御史中丞・尚書右丞・兵部侍郎を歴任した[5][2]。貞元11年(795年)、京兆尹に転じた[6]。鄭鋒を推挙して倉曹とし、銭穀のことを管掌させたが、鄭鋒は下に対して苛酷だったため、人々に恨まれた。鄭鋒は府中の雑銭を捜索し、民衆から穀物30万石を買い上げて進奉し、恩寵を図るよう韓皋に勧めた。韓皋はその策を聞き入れ、鄭鋒を推挙して興平県令に転じた[7][2]。
貞元14年(798年)、韓皋は民衆に訴えられて、撫州司馬・員外置同正員に左遷された。ほどなく杭州刺史に転じ、再び尚書右丞に任じられた。貞元21年(805年)、順宗の下で王叔文らが永貞革新を進めると、韓皋は王叔文らを憎んだ。韓皋の従弟の韓曄は王叔文らに協力しており、韓皋を告発した。このため韓皋は鄂州刺史・鄂岳蘄沔等州観察使として出された[7][2]。元和元年(806年)、鄂岳蘄安黄等州節度使に進んだ[8]。元和3年(808年)、潤州刺史・鎮海軍節度使・浙西観察使に転じた[9]。元和6年(811年)、東都留守となった[10]。元和8年(813年)6月、検校吏部尚書を加えられ、許州刺史を兼ね、忠武軍節度使をつとめた。陳州と許州の洪水の後、韓皋は絹布など10万匹を賜ったが、全て軍をねぎらうために消費した。その統治は簡素で倹約なことで知られた。元和9年(814年)、入朝して吏部尚書となり、太子少傅を兼ね、判太常寺卿事をつとめた。元和11年(816年)3月、皇太后王氏が死去すると、韓皋は大明宮使をつとめた。元和15年(820年)閏1月、憲宗の山陵礼儀使をつとめた。3月、穆宗の師保をつとめた旧恩により、検校尚書右僕射を加えられた。長慶元年(821年)1月、正式に尚書右僕射に任じられた。長慶2年(822年)4月、尚書左僕射に転じた。この年、本官のまま東都留守をつとめた[11][2]。長慶4年(824年)1月甲戌[12]、戯源駅で突然死した。享年は79。太子太保の位を追贈された。諡は貞といった[13][2]。
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
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