阪井久良岐とは? わかりやすく解説

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阪井久良伎

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/16 03:47 UTC 版)

阪井久良伎

阪井 久良伎(さかい くらき、明治2年1月24日1869年3月6日) - 昭和20年(1945年4月3日)は川柳作家である。別名:阪井 久良岐(さかい くらき)、徒然坊坂井 弁(さかい わかち)、酒井 弁(さかい わかち)、本名:阪井 弁(さかい わかち)[1][2]井上剣花坊とともに川柳革新運動を行った。

神奈川県久良岐郡野毛(現在の横浜市中区野毛町)に生まれる。本名、辨(わかち)、父は税関役人であった。共立英語学校、東京高等師範国文科在籍中より、石城、徒然坊の筆名で漢詩和歌の投稿を行った。明治29年(1896年)報知新聞に入社、翌年新聞『日本』に入社する。『旧派歌人十余家の自賛歌十首』を連載し、この記事は正岡子規の反発を受け、子規の『歌よみに与ふる書』が執筆される機縁となった。明治36年(1903年)『日本』の川柳壇の選者を務め、『川柳梗概』を執筆し川柳の革新運動を始める。同年、井上剣花坊が『日本』に入社し、新川柳を担当したため、『電報新聞』(後に毎日新聞に買収される)で川柳壇を担当した。明治37年(1904年)、久良岐社を創立し、川柳誌『五月鯉』を創刊した。『五月鯉』は明治40年に刊行にゆきづまるが、その後、川柳誌『矢車』の序文に寄稿し、明治42年に『獅子頭』、大正3年に『川柳文学』を創刊した。

江戸期の川柳・狂句が滑稽・風刺に偏ったことを改め、風俗詩としての川柳を主張した。主要な著作は『川柳久良伎全集』(本山桂川編、全6巻、1931~32年)にまとめられている。

代表句としては「一寸粋なミッスの通る薔薇垣根」「トタン葺き春雨を聞く屋根でなし」などがある。墓所は青山霊園(1ロ14-4)。晩年を過ごした市川市の下総国分寺境内に「五月鯉四海を呑まんず志」の句碑が建てられている。また墨田区向島の三囲神社境内にも「広重の雪に山谷は暮れかかり」の句碑がある。

脚注

  1. ^ 阪井, 久良伎, 1869-1945”. Web NDL Authorities(国立国会図書館典拠データ検索・提供サービス). 国立国会図書館 (1998年6月4日). 2014年9月4日閲覧。
  2. ^ 阪井, 弁, 1869-1945”. Web NDL Authorities(国立国会図書館典拠データ検索・提供サービス). 国立国会図書館 (1998年6月4日). 2014年9月4日閲覧。

参考文献

  • 『川柳の群像 明治・大正・昭和の川柳作家100人』東野 大八 (著) 田辺 聖子 (監修) 集英社 (2004年) ISBN 4087812855
  • 『俳句と川柳』復本 一郎 (著) 講談社現代新書 (1999年) ISBN 4061494783

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