長谷王とは? わかりやすく解説

泊瀬王

(長谷王 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/27 06:50 UTC 版)

泊瀬王
続柄 厩戸皇子第二王子

出生 不明
死去 推古天皇36年(628年
配偶者 佐富女王
子女 葛城王、多智奴女王
父親 厩戸皇子
母親 膳部菩岐々美郎女
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泊瀬王(はつせのおおきみ、? - 推古天皇36年(628年))は、飛鳥時代皇族。名は泊瀬仲王長谷王とも記される。厩戸皇子の次男。

概要

推古天皇36年(628年)に推古天皇崩御すると、皇嗣を巡って、敏達天皇の孫・田村皇子(のち舒明天皇)を推す蘇我蝦夷と、用明天皇の孫・山背大兄王を推す境部摩理勢とが争う。泊瀬王は兄の山背大兄王を支持して、境部摩理勢を自邸の泊瀬王宮に匿うなどその後ろ盾となった。しかし、山背大兄王の説得により摩理勢は泊瀬王宮を退去し、さらに泊瀬王は病気となり間もなく没した[1]

泊瀬王は斑鳩の地に泊瀬王宮(飽浪葦牆宮 - あくなみのあしがきのみや)を置き、泊瀬部(長谷部)も所有していたと見られている。

系譜

大伴奴加之古連(大伴糠手子)の女子古氐古郎女(小手子)との間に波知乃古王・錦代王をもうけたとあるが、これは似た崇峻天皇との混同とされる[2]

脚注

  1. ^ 『日本書紀』舒明天皇即位前紀
  2. ^ a b c d 『上宮記』

出典


長谷王(はつせのおうじ)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 01:41 UTC 版)

日出処の天子」の記事における「長谷王(はつせのおうじ)」の解説

厩戸膳美郎女息子厩戸の弟の来目似ている舂米同じく優れた人物として描かれている。作中では、同母妹である美し馬屋古に恋をして苦しむ。

※この「長谷王(はつせのおうじ)」の解説は、「日出処の天子」の解説の一部です。
「長谷王(はつせのおうじ)」を含む「日出処の天子」の記事については、「日出処の天子」の概要を参照ください。

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