釜石鉱山田中製鐵所とは? わかりやすく解説

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釜石鉱山田中製鉄所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/04 09:03 UTC 版)

釜石鉱山田中製鉄所(かまいしこうざん たなかせいてつじょ、旧字体釜石鑛山田中製鐵所󠄁)は、日本製鉄北日本製鉄所釜石地区の前身にあたる製鉄所である。1887年(明治20年)7月に設立され、輸入鉄に頼っていた日本で最初に製鉄事業を軌道に乗せた。コークスを使った銑鉄の産出も同所が最初であり、日本で初めて安定稼動した銑鋼一貫製鉄所でもある。田中家の個人経営だったものが1917年(大正6年)に株式会社化され、以降は田中鉱山株式会社の釜石鉱業所となる。


注釈

  1. ^ 今後再び木炭が不足することを恐れ、代わりにコークスを用いようとしたところ、未だその知識や技術が未熟だったために出口の閉塞を招いたと推定される。
  2. ^ 明治15年の国内銑鉄の売価が平均31円20銭/tなのに対し、ほぼ同時期の輸入鉄は平均27円50銭。ちなみに当時人夫の日当は平均45銭程であった。
  3. ^ 藤田伝三郎に払い下げられた旧釜石鉄道蒸気機関車とレールは、その後大阪で開通した阪堺鉄道建設に用いられた[4]
  4. ^ 後に息子・村井信平も釜石製鉄所に入り、親子二代でこれを支えた。釜石製鐵所山神社扁額の年月日は源兵衛の筆によるもの。
  5. ^ この時出銑した銑鉄が横山康吉(横山長次郎の養子)邸に保存されていた[7]
  6. ^ 釣り銭の必要性から生まれたと言われ、5銭、10銭、20銭、50銭と4種の鉱山札があった[10]。正式な許可を得たものではなかったが、大らかな時代だった。
  7. ^ 銑鉄は鉄鉱石を還元して造るが、燃料及び還元剤としてコークスを使用するのがコークス銑。木炭を使えば木炭銑になる。従来はすべて木炭銑だった。
  8. ^ 香村を補佐して実際の作業をしたのは盛岡出身で下斗米秀之進の孫・下斗米小六郎、そして品川硝子製作所の解散後に招かれた中島宜[12]。中島は明治20年に品川硝子の工長としてドイツ留学した人物で、後に西村勝三の下で日本皮革日本製靴、そして品川白煉瓦の技術顧問となって耐火煉瓦の開発にも力を尽くした[13][14][15]
  9. ^ 帆船・長安丸(123t)[17]は1894年に中古で購入。同年12月に八戸沖で沈没したのはこの船と推定される。1902年新造の第壱長安丸(172t)[18]のように横山久太郎名義の船もあった。名称は長兵衛の"長"と安太郎の"安"から取ったと思われる。
  10. ^ 1872年生、東京帝大工科大学採鉱冶金科卒[23]。中大路は田中時代の技術的な記録をまとめた原稿を書いていたが、関東大震災で惜しくも焼失している[7]
  11. ^ 所長・横山久太郎、技師長・中大路氏道、栗橋分工場監督・高橋亦助、製鋼課長・藤田俊三、製銑課長・直井武好、製銅課長・岡田権四郎、採鉱課長・徳田孝茂[24]
  12. ^ 所長・小松仁三郎、鉱務部長・安間留五郎、経理部長・石神球一郎、採鉱課長・美座菊千代、製錬課長・番場恒夫[24]
  13. ^ 1919年(大正8年)7月に役員変更あり。取締役社長・田中長兵衛、専務取締役・田中長一郎、取締役の香村小録と中大路氏道は変わらず、吉田長三郎が取締役となり、監査役には横山金治と野村三四郎の名が新たに並んだ[26]
  14. ^ 当時三鬼はまだ入社2年目だったが、入社早々に小笠原諸島の件を上手く整理、台湾金瓜石の件でも手腕を発揮(田中長一郎の項参照)し長兵衛を大いに喜ばせている。帝大法学科卒でもあり、初めての労働争議で対応に苦慮した本店から調停を任されるだけの実績は既にあったと言える。
  15. ^ 中田は横山虎雄より9つ年上。同じ東京帝大だが中田は冶金科卒のいわゆる専門家であり、1909年から釜石で経験を積んでいた。また中田の妻は虎雄の妻の実姉(どちらも初代長兵衛の孫)である。高炉の鬼と呼ばれるほど厳しい人物で、この時期の実権は中田にあったと言われる
  16. ^ 「先祖代々の墓・田中」の墓碑を中央に、左に「釜石鉱山員中」、右に「金瓜石鉱山員中」と彫られた1901年建立の石灯篭があり、それらに向かって右側にひと回り大きな万霊塔が建てられている[32]

出典

  1. ^ 富士 1955, p. 21.
  2. ^ 千夜 1984, p. 49.
  3. ^ 富士 1955, p. 23-25.
  4. ^ 『鉄鋼界 26(6)』 p.39 日本鉄鋼連盟、1976年6月
  5. ^ 三枝 1954, p. 27.
  6. ^ 夜話続 1957, p. 236-237.
  7. ^ a b 村井 1955, p. 7.
  8. ^ 富士 1955, p. 46.
  9. ^ 富士 1955, p. 48-49.
  10. ^ 富士 1955, p. 467.
  11. ^ 『近代東北庶民の記録 上』 p.230 NHK仙台制作グループ、1973年
  12. ^ 香村小録『香村小録自傳日記』1939年、16頁。doi:10.11501/1106381全国書誌番号:44051123https://dl.ndl.go.jp/pid/1106381/1/1 
  13. ^ 井野邊茂雄, 佐藤栄孝『西村勝三の生涯 : 皮革産業の先覚者』西村翁伝記編纂会、1968年、231頁。doi:10.11501/3448918全国書誌番号:73003879https://dl.ndl.go.jp/pid/3448918/1/1 
  14. ^ 新村信太郎, 河島千尋, 稻生謙次「化學磁器と耐火煉瓦の搖籃期を語る」『窯業協會誌』第59巻第659号、日本セラミックス協会、1951年、221-224頁、doi:10.2109/jcersj1950.59.221ISSN 00090255CRID 13900012052178498562023年5月26日閲覧 
  15. ^ 村井 1955, p. 45.
  16. ^ 夜話続 1957, p. 240-241.
  17. ^ 『官報 1894年03月24日』 第3217号 p.271 大蔵省印刷局 編
  18. ^ 『官報 1902年04月01日』 第5619号 p.26 大蔵省印刷局 編
  19. ^ 富士 1955, p. 65.
  20. ^ 三枝 1954, p. 37-38.
  21. ^ 千夜 1984, p. 76.
  22. ^ 千夜 1984, p. 58.
  23. ^ 『人事興信録 5版』 な之部 p.27 人事興信所、1918年
  24. ^ a b c 『日本鉱業名鑑 改訂』 p.32 鉱山懇話会 編、1918年
  25. ^ 『日本優良商品文庫』 p.4 高洲豊水 編、1921年
  26. ^ 『工商時論』3(9)、工業商事通信社、1919年9月、丙 14頁。NDLJP:1538969/41 
  27. ^ 『大衆人事録 昭和3年版』 ア之部 p.51 帝国秘密探偵社、1927年
  28. ^ 『海商通報 (1099)』 p.9(田中長兵衛の項) 海商社、1905年12月
  29. ^ 富士 1955, p. 419.
  30. ^ 『日本ラヂオ総覧』 p.640(中村義恵の項) ラヂオ協会、1929年
  31. ^ 『東京港 5(5)(48)』 p.44 東京港振興会、1941年6月
  32. ^ 『鉄鋼界 26(4)』 p.44-45 日本鉄鋼連盟、1976年4月
  33. ^ 高木俊之「釜石製鉄所における三鬼隆と生活構造:戦前期における企業人の社会的形成とアソシエーション」『大原社会問題研究所雑誌』第544号、法政大学大原社会問題研究所、2004年3月、25頁、ISSN 09129421NAID 400062029232023年3月10日閲覧 
  34. ^ 千夜 1984, p. 198.
  35. ^ 富士 1955, p. 77.


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